眷眷明朝: 朝鮮士人的中國論述與文化心態(1600-1800) - 吳政緯 - Google 圖書

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在沒有中國的地方尋找中國:《從漢城到燕京》選摘(1)
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「明清時期,『朝鮮使節團』按例連年組織三百人左右的盛大隊伍,浩浩蕩蕩地出使中國。」(秀威資訊提供)
一個生於十六到十八世紀之間的朝鮮人,他腦海中的「世界」是甚麼樣子?要徒步多遠,才能離開朝鮮?越過邊境,直至盡頭,是北極或南極嗎?
明清時期,「朝鮮使節團」按例連年組織三百人左右的盛大隊伍,浩浩蕩蕩地出使中國。這趟行程長達一千兩百公里,使節團沿著鴨綠江,要走四十天至六十天不等,才能穿過山海關,來到北京。
越過高山與深河,他們親歷中國,看見了什麼?
既然清朝的文化不如明朝,則朝鮮使節的中國旅行,無異於一場「緬懷明朝」的盛大演出。他們一路上身著大明衣冠,沿途關注各式敏感的文化物品、歷史遺跡,在日記中不時自問「大明衣冠今何在?」清代朝鮮人的使行,像是對大明王朝的致敬,他們嘗試捕捉某種熟悉感,體會一個已然消逝的時代。朝鮮王子李㴭離開朝鮮前,途經平壤城,他還記得城中的「武烈祠」,也就是「壬辰東征唐將畫像處也」,在那供奉著萬曆朝鮮之役期間,幾位曾征戰沙場的明軍將領的肖像,而這是當時的中國人已然遺忘的存在。
朝鮮使者關心明朝,不論是在一六四四年後,尚屬去久未遠的「新聞情報」,或是去古百年後的「歷史傳說」,明朝是話題,是前往清國的重要目的。一六四五年,成以性詢問一位名叫高美的漢人,說天下大亂,人為魚肉,有見識的高人,都逃奔何方?又問北京城陷落時,是否有忠於大明的人士,為明朝殉節。高美一一回答後,成以性又追問道:「君有如許文才,此後赴舉耶?」試圖藉此探詢人心的歸向,是否中國人仍心懷大明,是否人心未死。這像是打聽情報,其實說的也是朝鮮人自己的故事,他們想要尋覓志同道合的人,證明吾道不孤,胡虜必無百年之運。
20170907-明清時期的「朝鮮使節團」,按例連年組織三百人左右的盛大隊伍,浩浩蕩蕩地出使中國。(秀威資訊提供)
「朝鮮使者關心明朝,不論是在一六四四年後,尚屬去久未遠的『新聞情報』,或是去古百年後的『歷史傳說』,明朝是話題,是前往清國的重要目的。」(秀威資訊提供)
有時答案令人失望,高美只是沉默不語,選擇迴避問題。康熙六十年(一七二一),李宜顯(一六六九-一七四五)偶遇一位自稱明朝國公後代的漢人常玉琨,他表明祖上是常遇春(一三三○-一三六九)的弟弟常維春。常遇春是明朝開國功臣,尤其以擊敗蒙古人著名,這在明清鼎革之後別具意義,李宜顯不禁問道:「你是明朝人子孫,獨無思舊之心耶?」玉琨只回了一句:「已順他人也。」李宜顯的表情想必比玉琨更加落寞。
不論是高美的沉默以對,或是常玉琨「已順他人」的自白,全都不是朝鮮人期待的答案。無怪乎姜浩溥(一六九○-一七七八)認為漢人「全無思大明之意」,儘管途間與一位名叫程瑍的漢人相識,姜浩溥卻無意與他稱兄道弟,理由是「嫌其薙髮胡服,恥與呼弟兄。」在姜浩溥眼中,薙髮胡服就是野蠻人,同時也是不思念明朝的人,因此不願深交。
不僅如此,初入境清國時,姜浩溥甚至不願意見上女真人一眼,並拒絕食用源自清國的食物。朝鮮使節團時常在沿路搭起火架,就地取材,做成簡易的餐點。姜浩溥自稱,在看過女真人的容貌之後,一股噁心想吐的感覺盤旋心頭,傍晚用餐時,發現烹飪使用的豬肉,雖然是隨行的朝鮮人調理,但來源是當地買來的豬肉,是「胡人之物」,於是嫌其汙穢而不願意食用。
姜浩溥的感受曾是朝鮮使者的普遍反應,他們驚愕於中華國的子民不思念明朝,甘心臣服女真人、蒙古人。諷刺的是,這群以明朝子民自居的朝鮮人,如今卻同樣得拜倒在大清朝廷之下,行禮如儀。姜浩溥走進紫禁城的太和殿時,清楚記得此處在明代名為皇極殿,是明朝天子接見臣子之處。當他跪倒在地,低身匍匐,心裡感慨的是:「胡酋儼然坐其上已可憤慨,況我輩以皇明遺民,平日讀經傳、講義理,其自視與視彼也何如?而今迺甘心拜稽於下,俯昂今古,無地灑涕。」顯而易見的是,姜浩溥以明朝子民自居,並對於朝見雍正皇帝(一六七八-一七三五)感到羞愧不堪。抱著這種念頭的人不止姜浩溥,一七三二年,韓德厚(一六八○-?)向皇帝行大禮時,不免感慨「以我衣冠禮容,屈膝於犬羊之庭,追念皇明盛時,感憤之懷,自難抑也。」[8]身著大明衣冠,撲倒在女真人的宮闕下,想必極不是滋味。
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紫禁城的太和殿,在明代名為皇極殿,是明朝天子接見臣子之處。(秀威資訊提供)
走進朝鮮使節的內心,就能稍微理解枯樹枝葉繁茂的意象,對他們而言別具深意,同時多少也能透析他們的言談與舉止,追問其動機與用心。李㴭對武烈祠的描述看似隨筆帶過,在我看來其實是有意識的行為,與此類似的例子甚多。同樣在朝鮮境內,前往北京的貢道上,路旁有一座小館,李德懋記得此處是明朝使者來朝鮮的必經之地,朝鮮、明朝的官員在此賦詩唱和。館旁一棵長約一丈的松樹,下可容二十餘人依地而坐。令李德懋遺憾的是,越來越少人認識這株松樹,在明朝滅亡以後,「無人識此松」。
清國派往朝鮮的使節,可能早已遺忘松樹的典故,朝鮮卻拼命想銘刻腦中。他們在中國境內移動時,多方注意各種與明朝有關的遺物,可能是一塊匾額,一座碑銘,一列牌坊。尤其遼東一帶是明清鼎革交火的熱戰區,朝鮮使者是唯一憑弔古戰場的遊人,藉此尋覓明朝的蹤跡。李宜顯曾巡禮山海關外松山、杏山等處,他在附近找到一塊明代立的碑文,是萬曆皇帝為嘉獎遼東官員王盛宗、王平父子而立。他發現碑文中有二字遭到挖空,按上下文判斷,被去除的字應是「奴酋」二字。朝鮮使者或許是少數注意這塊碑銘的路人,也是發現明朝的用語遭到時代擠壓,漸漸消失的見證者。
松山、杏山一帶至關重要,這是山海關外重要的防守據點。明朝將領洪承疇(一五九三-一六六五)曾與皇太極(一五九二-一六四三)在此對峙,爭奪這些城寨的主導權。這場名為松錦之戰的結局,清軍大獲全勝,洪承疇向清軍投降,此後成為明朝的敵手。一七二一年,李宜顯仍記得此處經歷的故事,他說皇太極得到「松杏之後仍長驅,席捲天下之勢,遂至於不可支。」又有多少清國人行經此處,從這樣角度看待古戰場的歷史意義?
李宜顯對山海關外的堡壘情有獨鍾,因為這裡不僅是明清兩國的拉鋸場,也是朝鮮國的傷心地。皇太極攻打松山、杏山、錦州一帶,時在一六三九年,朝鮮已臣服清軍,有義務出兵協助大清朝廷的南下之行。朝鮮王子李㴭站在松錦城下,憶及「清主徵吾東數千精砲,替戍四五年。」在此處與皇明中華鏖戰。李㴭不禁感嘆「東方將卒縱怯清人威令,含羞赴敵。國家數百年養兵,未用於當用之時,反用於不當用之地。」朝鮮的養兵之功,居然付諸此地,用以對付大明,令思念大明的使臣心痛。李㴭眼前的杏山堡,滿目瘡痍,百姓蕭條,不知他是否感到一絲罪惡感?(相關報導:長平觀察:吃朝鮮的飯,砸朝鮮的鍋?|更多文章)
20170907-《從漢城到燕京》書封。(秀威資訊提供) 무열사(武烈祠) ~ 무외국사(無畏國師)
《從漢城到燕京:朝鮮使者眼中的東亞世界》(秀威資訊提供)在沒有中國的地方尋找中國:《從漢城到燕京》選摘(1)-風傳媒 https://bit.ly/2C4wG8F

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武烈祠

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從「尊明」到「奉清」: 朝鮮王朝對清意識之嬗變,1627-1910(平裝版) - 孫衛國 - Google 圖書

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【眷眷明朝】不吃豬肉的朝鮮人
【眷眷明朝】不吃豬肉的朝鮮人 | 故事 StoryStudio https://bit.ly/3054iuV
吳政緯
我不是一個意志堅定的人,也沒辦法為了堅持甚麼,付出多麼大的代價。事實上不需要刑求我,只要讓我餓個幾餐,真的甚麼都會說出來。就是這樣的我,幾次翻閱朝鮮人在中國寫的日記時,帶來極大的震撼。就如同之前曾經提過的,即使明朝已於 1644 年滅亡,他們仍然將明朝「放在心裡」,時時刻刻地「思念」。
他們有多厭惡清朝人,堅持了些甚麼?舉一個較極端的例子來說明:清朝「曾靜案」發生的前一年,雍正五年(1727),朝鮮人姜浩溥(1690-1778)跟隨使節團去中國旅遊,這一夥人浩浩蕩蕩,除了負責禮儀的人員,以及姜先生這種隨團觀光客外,還備有「醫生」、「廚師」等成員以應付突發狀況。那一天,他們剛通過清朝國境,時間恰好是傍晚,一行人都餓了,於是叫廚子在附近隨便買些食材,就地開火。
可以想像,一群朝鮮人或自備、或找來木材,拿出各種鍋碗瓢盆,廚子也在旁邊的「超級市場」買到食材,野炊了起來。這群人因為各種目的出使中國,長途跋涉,估計每天又餓又累,吃飯應該是最開心的事情。但是姜先生卻皺了眉頭,姜浩溥他在日記提及:「傍晚用餐的時候,見到烹飪豬肉為主餐,做菜這些事情雖然是隨行的廚子在處理,但我以為這個豬肉是清朝人的東西,是污穢的,我不吃。」(夕飯,見烹炙豬肉為饌,設饌則雖行中廚房所為,而豬肉則以為胡人之物而穢之,卻不食焉。)
隨行的使節問說你怎麼不吃豬肉,他再次說「這是胡虜的東西,被(清朝人)汙穢了。」(虜物也,穢之也。)
姜先生不吃清朝豬肉的故事,有些人第一次看可能就是「笑一笑」,然後直接翻下一頁。我卻覺得很有意思,「認同」可以多麼地深入一個人的生活,不管是私密的言行或公開的表演,例如你用甚麼年號來記錄時間(清朝的、明朝的)、穿甚麼衣服(明朝衣冠)、留甚麼髮型(剃髮or not),還聯繫到食材是否出於清朝。(這些議題已有很精采的研究,見葛兆光《想像異域:讀李朝朝鮮漢文燕行文獻劄記》、孫衛國《大明旗與小中華意識:朝鮮王朝尊周思明研究》)
在姜先生不吃豬肉後 37 年,那一年是 1764 年(乾隆29年),剛剛好是崇禎紀年 137 年。明朝滅亡的那一年,歲次「甲申」,1764 年剛剛好也是「甲申」年,因此朝鮮人舉辦了盛大的紀念活動。
根據朴趾源(1737-1805)的記載,儘管明朝已滅亡 120 年,但在崇禎皇帝的「殉國紀念日」,朝鮮的地方人士相聚一堂,他們向著西邊(清朝)大聲喊「胡!」(一種蔑視少數民族的說法,請勿使用)當活動結束後,他們用來喝糖水的小瓷盆是「made in 明朝」,喝的時候一定要看著「大明成化年製」這行字,表示自己不曾忘記明朝。
三月十九日,乃毅宗烈皇帝殉社之日。鄉先生與同閈冠童數十人,詣城西宋氏之僦屋,拜尤菴宋先生之遺像,出貂裘撫之,慷慨有流涕者。還至城下,搤腕西向而呼曰:「胡!」鄉先生為旅酬,設薇蕨之菜。時禁酒,以蜜水代酒,盛畫瓷盆,盆之款識曰「大明成化年製」,旅酬者必俯首視盆中,為不忘春秋之義也。──《熱河日記》
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如果只看這兩個故事,令我困惑的不是這些行為本身,而是兩位作者的身分。畢竟朴趾源整整少姜浩溥 47 歲,我跟父親都沒差這麼多;事實上 47 歲的差距,有的搞不好都是「爺爺─孫子」的年齡差距了。
這樣一想,對明朝的認同不僅可以讓人不吃豬肉,而且還可以「遺傳」後人,甚至成為部分朝鮮人共享的價值。筆者剛進入這個研究領域時,當時部分學者正極力挖掘「崇禎紀年」可以多久,朝鮮人因為思念明朝的關係,導致哪些特殊的現象。我並沒有特別去查崇禎紀年維持多久,印象中看過最晚的是「崇禎紀元後五庚子」,1900 年。
相較之下,我更好奇一位思念明朝的朝鮮人,他怎麼跟清朝的讀書人交往,雙方在一個甚麼樣的「基礎」上認識彼此,成為好朋友,或吵鬧地不歡而散。因此筆者在《眷眷明朝》特別關注朝鮮人如何與清朝人交往。更重要的是,我想知道 1900 年找得到崇禎紀年,我能不能說「他們思念了明朝兩百多年。」我困惑、著迷於跨越不同世代的朝鮮人,有時候他們筆下的中國好像凝固靜止,百年不變,就好像他們自己思念明朝一樣。是甚麼讓他們維持這樣的狀態,又怎麼結束的?
朴趾源敬重的好朋友洪大容(1731-1783)於 1765 年踏上旅途,他可以說是近年來最出名的朝鮮使者。洪先生與三位清朝讀書人結為「天涯知己」,他不住在清朝官方提供的「大飯店」,也不跟使節團走固定的套裝行程,硬是跑出來跟這幾位天涯知己窩在北京的小館裡,開了一個小包廂,整天「筆談」。因為洪大容不會說流利的北京話,於是雙方都用「寫字」聊天。
我相信有些話只能跟好朋友分享,估計洪大容與中國友人幾杯黃湯下肚,在「他鄉遇故知」的激情下,留了不少「敏感」的紀錄。畢竟這裡是清朝,時在乾隆年間,小朋友,文字獄有沒有聽過啊?當他們聊天的時候,洪大容發現這幾位清朝人認真地檢查談話紀錄,把涉及敏感的內容都毀掉。
理由很簡單,因為洪大容是一個眷戀明朝的人,所以聊了一些不太方便的事情,於是打包帶走比較安全。這是拙作書名的由來,也是我想解答的問題。(蓋見余之眷眷明朝,氣色頗以為難便,此則其勢亦然矣。)
洪大容的故事可以有平凡的結局,他回到家鄉,中國旅行是一生特別的回憶,陪他度過一輩子。不過,還是出了插曲。他返國後著手整理的隨行撰寫的日記,以及僅存的一些「對話紀錄」,在朝鮮出版了一本旅遊經驗談《燕記》,一本對談集《乾淨衕筆談》。這裡頭各種與「胡人」激情四射的友好紀錄,引來了朝鮮讀書人的攻擊,諸位別忘了,洪大容出發前一年,朝鮮剛舉辦「甲申」年紀念大會呢!
洪大容的故事像是投到池塘裡的小石子,讓我們發現時代的波瀾。
1750 年代以降,朝鮮社會充滿活力,各種言論迸出。如果當時有電視節目,我相信一打開政論頻道,標題大概圍繞著「中國、朝鮮」旋轉。當然,清朝不是朝鮮的全部,但至少也是他們思想活動中不可忽視的存在。朝鮮要如何面對當時的中國,牽涉了如何定位清朝、重新安排明朝的地位;以及朝鮮如何寫明朝歷史,如何教育下一代。
朝鮮人所繪的〈天下總圖〉(局部),現藏韓國國立中央博物館
朝鮮人所繪的〈天下總圖〉(局部),現藏韓國國立中央博物館
筆者在閱讀朝鮮人的各種文獻時,並不感到特別「困難」,因為當時的知識份子大都用漢文書寫,與我熟悉的中國史料很相像,讀來格外親切。不過,當我開始思考朝鮮人如何離開「眷眷明朝」的心境時,問題變得越來越複雜。
例如,朝鮮的底層讀書人李萬運(1723-1797),一位提倡朝鮮歷史教育的人,他寫的是漢文(與口語用的朝鮮話不同),從小學習儒家經典,在當時,中國人物「箕子」竟然是朝鮮歷史的重要角色。我們要怎麼理解這種歷史現象?一位老師曾經說過,不要小看朝鮮人這些關於中國的文獻,試想我們有沒有辦法用日文(或另一外國語)介紹、描述日本的歷史與思想,甚至用日文寫散文來抒發心情。要從這個角度看待「漢文」在朝鮮知識階層的份量,才能體會他們看待自己,以及看待清朝的關係。
朝鮮的讀書人能夠熟練地運用漢字,需要經過多少的學習以及數個世代的累積,這本身就值得深刻地推敲。那麼,這樣的人怎麼在滿佈中國的圖像裡尋找自己?這是拙作最終試圖解答的困惑。關於這個部分曾簡略地寫成「朝鮮的『中國史難題』:他們如何撰寫自己的歷史?」,至於整個較詳細地討論,尤其是比較同時間清朝與朝鮮之間的關係,主要集中在第四章處理。
以上就是筆者寫作時,放在心裡反覆斟酌的線索,算是提供各位朋友一個側面的了解吧!關於這些議題,我仍有許多不解(足)之處。時至今日,我仍努力嘗試讓自己坐近姜浩溥一點,聽他述說不吃豬肉的原因。
眷眷明朝:朝鮮士人的中國論述與文化心態(1600-1800)
 1600-1800年代的朝鮮王朝,竟然也曾經歷從「去中國化」到「本土化」的過程?
  1644年,明朝滅亡,原為皇明屬國的朝鮮自此開始了「思明」的文化現象,本書時間跨越兩百餘年,徵引29種《燕行錄》和32種朝鮮士人文集,完整探討晚明至清中葉,朝鮮士人對於「明朝」的討論,並以清朝儒生作為參照對象,考察朝鮮思明文化的論述、實踐及其終結的曲折過程;以及朝鮮燕行使歸國後的反應與影響。
豚肉を食べない朝鮮人
私は強い意志の持ち主ではない。こだわりやらのために多大な代償を払うこともできない。何食も抜かれたら何でも吐くような人間だ。だからこんな私が朝鮮人が清国で書いた日記をひもとく時、内心には激震が走ったのだった。前にも述べた通り、明が1644年にとっくに滅びたにもかかわらず、彼らは明への敬愛をやめない。
彼らはどれほど清国を嫌ったか?極端な例になるが、雍正五年(1727)、姜浩溥(カンホポ)(1690-1778)が使節団とともに中国に旅立った。この使節団のは大がかりだった。儀礼関係のスタッフや姜さんのような人のほかに、医者や料理人もイザという時のためについている。一行が国境を通ったときはちょうど夕方で、みんなも腹が減っているので、料理人に頼んで近くでなんとか買ってきて晩ご飯をつくることにした。
使節団のみんなは薪を探したり、食器を用意したり、料理人も「スーパー」から食材を買って炊き始めた。一行はいろんな目的で中国へ派遣され、長い旅路の末ここにたどり着いたから、晩ご飯を楽しみにしているのは想像に難くない。しかし姜さんは眉を顰めた。豚肉は食べたくない、なぜならこれは清国のブタで汚いからだ、と彼は日記に書いている(夕飯、豬肉を烹炙して饌とせるを見、饌を設くれば行中の廚房のなせる所と雖も、豬肉は則ち以為胡人の物として之を穢とす,却って食わず焉。)。使節からなぜ豚肉を食べないと訊かれ、彼はまた「これは野蛮人のものだ、汚されてしまったんだ」(虜の物なり,之を穢せり。)と愚痴をいった。
この姜さんが清国の豚肉を食べない話、読む人によっては笑って飛ばすだけかもしれないが、私はとても興味深いだと思う。主体性(アイデンティティ)がいかに人を左右するかをここから窺えるのではないか。例えばどの元号を使ってできごとを記録するとか、どんな服(明朝の服など)を着るか、弁髪するか、甚だしくは食材の出所にも及ぶ。
姜さんが豚肉を拒否した37年後、時は1764年(乾隆29年、朝鮮では「崇禎137年」)、甲申の年にあたる。明が滅びた年も甲申だった。朝鮮人はこのことを風化させないために記念行事を盛大に行なった。朴趾源(パクジウォン)(1737-1805)によると、明の滅亡からもう120年にも経ったが、崇禎帝の「殉国の日」には、地方有力者が集まり、西(清国)に向かって「胡(えびす)!」と叫ぶ(これは少数民族に対する差別用語なので真似しないでください)。イベント終了にあたっては、「Made in 明」の小さな磁器で甘い水(酒の代用品)を飲み、飲むときは必ず「大明成化(1465-1488)年製」の銘を見つめ、明を肝に銘ずることを表す。
この二つの話は私を戸惑わせた。それはかれらの言行ではなく、かれらの身分に由来するものだ。そもそも朴趾源は姜浩溥より47歳も若く、私とウチの父でもギャップはこんなに大ききはない。下手すると爺さんと孫ぐらいの年齢差とみても差し支えない。
明への一体感は人を豚肉を拒否するようにするだけではなく、後世に「遺伝する」こともできる。一部の朝鮮人が共有する価値観にさえなる。私がこの研究分野に入った当初、一部の学者は崇禎紀元の使用がどこまで続けるかに夢中していた。朝鮮人が明を偲ぶあまりに、どのような奇妙な現象がうまれたとか。私は別にそれを調べなかった。記憶によると「崇禎紀元後五庚子」はもっとも後の用例だ。それは1900 年だった。
私がもっと知りたいのは、明を偲ぶ一人の朝鮮人は、どうやって清の知識人と付き合うのか?どんな「土台」で互いを理解しているのか?なにより1900年にも崇禎紀元が使われているなら、「かれらは二百年も明を偲び続けた」といえるのか。私は戸惑った。違う世代に生きる朝鮮人に強く惹かれた。彼らが描く中国のイメージはときにいつまでも変わっていないように見える。あたかもその明を偲ぶ感情のように。一体なにが彼らをこの状態を維持させ、そして終わらせたのか?
朴趾源が敬愛している親友の洪大容(ホンデヨン)(1731-1783)は1765年清国へ向け出発した。彼は近ごろもっとも有名な朝鮮使節といえよう。洪は三人の清国知識人と「天涯知己」となり、清の政府が用意する「グランドホテル」にも泊まらないで、使節団と一緒にゴージャスなパッケージツアーをしない。なんと彼は無理やりこの「天涯知己」たちと一緒に北京の小さい宿に入り、個室に集まって一日中「筆談」したのだ。洪は中国語を流暢に話すことができないから、両方は「書いて」雑談することにした。
知り合いとしか話せないことというのがある。彼らはさぞ深酒をしていただろう、みんなは腹を割って政治的にヤバい記録をたくさん書き残した。時代が清の乾隆期だからね。よい子のみんなは「文字の獄」を聞いたことあるかな?雑談のさなかに、洪大容は清国側の三人が入念に筆談の記録をチェックし、ヤバいヤツをすべて処分しているのに気づいた。
雑談の内容がヤバいワケはいたって簡単だ。洪大容は清に滅ぼされた明を偲んでいる。だからいくつかのマズいテーマについて話した。記録は隠して持ち帰った方が吉だ。(蓋し余の明朝を眷々(しの)ぶことを見、気色頗る難便となし,此れ則ち其の勢も亦然るべし。)
このエピソードはごく普通に一件落着できるはずだった。洪大容は故郷に帰った。彼にとって中国旅行は一生の思い出だ。彼は真摯に「天涯知己」たちとの出会いを大事にしている。そこで彼は手元の日記と残されたわずかな対談記録を整理し、朝鮮で『燕記』という旅行記と『乾淨衕筆談』という対談集を出版した。これらの著作の中には「胡人(清国の人)」たちとの白熱のふれあいが記載され、朝鮮知識人たちの攻撃の的になってしまった。なぜなら洪大容が旅立つ一年前朝鮮は甲申の年の記念行事を行なったばかりなのだ。
洪大容の事跡は古池に投げ込まれた石ころのようなものだ。われわれはこれによって時代の波動をうかがい知れる。
1750年代以降、朝鮮の社会は活気あふれる様相を呈し始め、いろんな意見が飛び交うようになった。当時にテレビがあれば、討論番組のテーマは中朝関係にまつわるものがほとんどだろう。朝鮮はいかに中国に対処すべきか、という問題は清の位置づけ、明の扱いかた、朝鮮はどういう方針で明の歴史を記述し、若者にどうやって教えるかなどに深くかかわる。
筆者が朝鮮人の残したさまざまな文献資料を読むとき、特段難しくは感じなかった。当時の知識人がたいてい漢文を使って本を書くからだ。私がよく接触する明清の文献資料によく似ている。私としては親近感すら覚える。しかし、朝鮮人がいかにしてその明を偲ぶことから離脱してゆく心境を考えると、文献資料が内包する問題はますます複雑になってくる。
例えば、朝鮮の下層知識人の李万運(イマンヌン)(1723-1797)は朝鮮の歴史教育を提唱した。彼が著述に用いるのは漢文で(古典中国語で話し言葉の朝鮮語とは全く違う)、子供のころより儒教の典籍について学んだ。当時では、なんと中国によって伝えられた人物の「箕子」が朝鮮歴史の重要人物とされていた。ある先生は私にこういった。「朝鮮人による中国関連著作を看過してはならない。果たしてわれわれ中国語を話す者は日本語で日本の歴史や思想について述べ、ひいて日本語で叙情的な作品を書けるのだろうか?」この視座から「漢文」という文体もしくは文化が、朝鮮知識階層にとってどれぐらい重かったのを考えねばならない。そこで初めて彼らの自身に対する見方と清に対する姿勢を実感できるのではないか。
朝鮮の知識人が滞りなく漢文を使いこなせるようになるには、多大な蓄積と数世代にわたる学習が必要だった。こんな現象自身が詳しい検討に値する。それならこんな人たちはどうやって中国だらけのアイコンから自己を見つけるのか。これは小論が最終的に解明しようとしている疑問である。
以上が筆を執る際にひそかに繰り返し考えてきた軌跡である。読者諸賢に一つの側面でも提供したいと思う。この分野に関しては、まだまだ無理解・不足がある。私はいまでも姜浩溥に豚肉を拒む理由を聞こうと、彼に近寄ろうとしている。
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宋朝的皇帝是有工資拿的,從太宗趙光義開始,皇帝每月可以從朝廷手裡每月領到1200貫銅錢的工資(1貫=1000文),當時的10貫錢可以兌換1兩黃金(宋1兩為40克),這筆錢相當於當時的120兩黃金。當然每月120兩黃金的薪水對於皇帝來說也是象征性的,皇帝本身擁有大量土地和商業經營,以及山林湖海資源類的相關稅收也是歸皇帝所有,百姓每年交的戶賦也是皇帝私有。明萬曆時期的朝鮮之役國庫沒錢,萬曆皇帝也是捐了300萬兩白銀(雖逼迫不得已)充當軍費,最後雖把豐臣秀吉的勢力趕出朝鮮,也讓明朝元氣大傷。等到崇禎時期,李自成快殺入北京時,崇禎皇帝自己捨不得捐錢,反而逼迫手下的官員捐錢為國家解決燃眉之急,最後北京城破,崇禎自縊煤山,闖王對原來的官員進行地毯式洗劫,從皇家和京城各路高官那裡只白銀一項就搶了8000萬兩,這其中的3700萬兩是就是崇禎本人生前的存銀。崇禎覺得打仗是國家的事所以不應該自己出錢,官員覺得國家是皇帝的,國事就是你的家事,憑什麼我出錢,結果這種自私的心理,導致他們集體被李自成割韭菜。大話歷史 | 宋朝的皇帝是有工資拿的,從太宗趙光義開始,皇帝每月可以從朝廷手裡每月領到1200貫銅錢的工資(1貫=1000文)... | Facebook https://bit.ly/3t5BnX8

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