青龍寺為日本遣唐使團來唐取經的重點學校 日本有”入唐八家”之稱的八位大師中,就有空海、圓行、圓仁、惠運、圓珍、宗叡等六位大師在青龍寺求法,其中最有名的當數空海大師 空海就是那位創立日本密宗,發明日本平假名,對日本的佛教、文化、藝術發展均有重大貢獻的大人物/空海拜密宗七祖惠果門下,傳承金剛與胎藏二部大法,為密宗八祖-空海能同時以口、雙手、雙腳書寫書法,而被稱為五筆和尚/空海開創密宗真言宗 @ 姜朝鳳宗族 :: 痞客邦 :: - https://goo.gl/HNfSx2
最澄(日語:最澄/さいちょう Saichō,767年9月19日-822年6月26日),俗名三津首廣野(日語:三津 首広野/みつのおびとひろの Mitsu no obitohirono),密教法號福聚金剛,出生於日本近江國(滋賀縣)滋賀郡古市鄉(今大津市),平安時代僧人、日本天台宗的開創者。
他也是著名書法家,作品中以久隔帖最為著名。
12歲在近江國分寺出家,座師行表和尚,14歲受戒,得法名最澄。
19歲(延曆4年(785年))在奈良東大寺受具足戒。同年7月,登比叡山修行,通讀大藏經。
797年,被任命為內供奉(ないぐぶ)十禪師之一。
802年,被任命為高雄山寺(神護寺)法華會(ほっけえ)的講師。入選入唐求法的短期留學生。
804年7月、同空海以及任翻譯的師弟義真等自九州出發。9月抵達明州(今中國浙江寧波)。遂登天台山,向湛然弟子輩的道邃、行満等禪師學習天台宗教義,受菩薩戒。
805年5月、回日本,在和田岬(今神戶市)上陸,開設了日本最早的密宗道場能福護國密寺。7月入京都,在途中繕寫了佛經230部460卷。適逢桓武天皇臥病、最澄在宮中為天皇祈禱康復。
822年6月,最澄於比叡山中道院去世,享年56歲,866年,清和天皇追諡「傳教大師」。
日本後紀
『日本後紀』嵯峨天皇紀,錄有最澄薨傳。
癸亥,傳燈大法師位最澄,卒。云云。延曆末,入唐請益。皇太子詹事陸淳左降台州刺史,會屈天台宗道邃和尚為座主。儻預講筵,稟學略了。良緣有感,一面為歡。助寫宗書三百餘卷訖,即復本職,拜別上京。既而隨使歸來,弘演宗義。云云。年五十有四。
日本國史略
『日本國史略』桓武天皇紀中,屢有贊評,言及最澄。其詞如下:
二年,敕曰:「京畿定額諸寺,其數有限。既禁私立道場。比來,所司寛縱,曾不糺察。如經年代,無地不寺。宜嚴加禁斷。」【松苗曰:佛法東渡以來,世創寺塔。至前朝建國分寺,其弊極矣。韓子所謂:『人其人,火其書,廬其居。』者,勢既不易為也。帝立此禁,寔權宜良方也。獨怪未幾,延曆七年,僧最澄,創寺於比叡山,建根本中堂。安藥師寺像,以稱濟世醫國。其後子院眾多,遂及三千。鴨水東北,無地不寺。民居,僅夾堂塔之間。而山徒暴虐,動起甲兵。譬由庸醫,口稱仁術,每損人命。遂至使後世天子,有:『鴨水之漲與山僧之暴,朕亦無奈之何。』之嘆。嗚呼!自佛法入我邦以降,蠹國害政,未有如是甚者也。惜哉當時,處此良方,徒置不用,而使病勢益劇。茍有志濟世者,安得不長大息乎。後經七百餘歲,平公信長,一怒,火攻之。天下大患,始得痊癒矣。治療之功,卻出自武將。豈謂之下策劫法乎。】
作品
久隔帖(部分) 最澄筆
弘仁4年(813年)11月25日,最澄致信空海,這篇書信作品,被稱為久隔帖。
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空海(日語:空海/くうかい Kūkai;774年7月27日-835年4月22日),俗名佐伯真魚,於唐朝為日本派遣僧,師學於今西安青龍寺,惠果阿都黎門下,受獲傳承付法第一人,賜受法號遍照金剛,謚號弘法大師,日本佛教僧侶,至中國學習唐密,傳承金剛界與胎藏界二部純密,為唐密第八祖,日本佛教真言宗的開山祖師。他被敬稱為弘法大師與遍照金剛。也因其書法功底強,而被稱為「五筆和尚」,與嵯峨天皇、橘逸勢合稱平安時代三筆,著名作品為風信帖。
父親是豪族,母親阿刀氏是渡來人後人。
日本寶龜5年陰曆六月十五(774年7月27日)出生於讚岐國多度郡屏風浦(今香川縣善通寺市),延曆23年(804年),向長安青龍寺惠果學習真言宗與大日經,在高野山傳播密宗。」空海將密宗區分為「純密」與「雜密」,見其所著「三學錄」。空海大師聰慧過人,所以才能接受密宗七祖的傳法,成為當時中國密宗的第八祖。
弘仁14年(823年),獲賜東寺,作為真言密教之道場。之後,相對於稱作台密的天台宗密教,東寺的密教稱作東密。
傳說空海大師參考梵文將日文字母以平假名排序成陣。此外他亦是有名的書法家,與嵯峨天皇、橘逸勢共稱三筆。著有《文鏡秘府論》。
承和2年三月廿一(835年4月22日)卒於高野山。諡號「弘法大師(こうぼうだいし)」。
在日本,「大師」一詞多專指空海。日語中就有一句格言:「弘法奪『大師』之名,秀吉奪『太閤』之名,玄奘奪『三藏』之名」(大師は弘法に奪われ、太閤は秀吉に奪わる,そしてまた三蔵は玄奘に奪わる)。
在台灣,因日治時代的影響,有祭祀弘法大師的寺廟,在台北市的西門町媽祖廟奉有空海大師法相,以紀念真言宗建廟之德。花蓮縣吉安鄉則有慶修院。
在四國地區,有88所與空海有淵源的寺廟被通稱為四國八十八箇所,日後也成為日本佛教徒的朝聖地點。
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最澄與空海——天台宗與真言宗文/ 茂呂美耶
奈良時代的佛教僧侶,往往以“看病僧”(為病人祈禱加持)身分深入宮廷內 部,贏得宮廷內 掌權女性之庇護後,再逐步登上龍門。玄昉、道鏡可說是其代表。玄昉倚靠陰謀詭計,道鏡則憑恃性能力與咒術能力,隱於幕後控制朝廷。這兩人均仰賴朝廷女性的力量,才得以擴展自己的教團勢力。桓武天皇遷都的背景,目的之一正是想擯除奈良時代宗教支配政治的弊病。也因此,新佛教便應際而生。
平安新佛教之雙璧,是最澄所創立的天台宗,及空海所開創的真言宗。新佛教的特色是不參與政治,在山中建立寺院,僧侶只專精束身修行、鑽研佛經與學問。因而新佛教又稱「山岳佛教」。最澄的道場是比叡山(橫跨京都府與滋賀縣)延歷寺,空海的立腳點則是高野山(和歌山縣)金剛峰寺。
同樣身為新佛教開山鼻祖的最澄與空海,有不少共通點。首先,兩人均於八○四年渡唐,但最澄是公費“還學生”身分,而空海是自費“留學生”身分。“還學生”與遣唐使一起渡唐,一起歸國;“留學生”通常必須在唐國滯留二、三十年,從基礎開始學起。理所當然,兩人在唐國所受的待遇,便有云泥之別。最澄在唐國待了八個月半,與遣唐使共同歸國;空海則在唐國學了整整兩年密宗後,才踏上歸途。這一年的遣唐使團出發船隊,總計四艘,空海搭乘第一艘,最澄搭乘第二艘,第三艘於途中遭暴風雨,只好斷念又駛回日本,第四艘則行踪不明,大概遇難沉到海底了。
其次,最澄與空海為同一時代的人。最澄生於七六七年,空海生於七七四年,兩人只相差七歲。而且,兩人都在青年時代經歷了山林修行。
最澄於十二歲入法門,十四歲得度,十九歲入東大寺受戒,卻突然跑到比叡山蓋了座草庵,過著山林修行的生活。對最澄來說,比叡山的修行生活是他的人生轉折點。這時期,京城已遷移成功,而比叡山正位於平安京的艮位,也就是東北方,鬼門也。桓武天皇聽聞最澄的名聲,便喚最澄下山入京,並讓他跟隨遣唐使團入唐。此時,最澄三十七歲。
與最澄比之,空海是地方豪族出身,十五歲時,為了出仕而上京。十八歲時,考進中央大學寮專授儒學的明經道科。如果朝這條路走下去,空海可以成為官僚,可是,他卻遇見一位僧人,受教了“ 虛空藏菩薩求聞持法”,爾後便在四國深山流浪修行。二十三歲回到京城,寫下《三教指南》,評論儒教、道教、佛教之優劣,斷言佛教是最勝之道,並宣言將成為佛教者。三十歲時渡唐。
最澄在唐國祇能滯留八個多月,入唐之後,立即到天台山台州國清寺受戒。達成抄寫大量經典的目的後,最澄發現唐國盛行密宗,便暗地學了一點皮毛。由於時間不夠,他對密宗僅知大概,不求甚解。
而空海是留學生身分,不受時間所限,於是先到長安醴泉寺向印度僧侶學習梵文與印度哲學。後來又到青龍寺拜訪當時密宗聖哲惠果大師,短短三個月,空海便學成胎藏界灌頂、金剛界灌頂,傳法灌頂大法,並傳承了大阿阇梨的地位。當然,空海在日本時便自行研習密宗長達十多年,經惠果大師點化貫通後,才得到印證傳承。兩年後,又隨著遣唐使團歸國。
由於入唐留學生研習期間規定是二十年以上,空海卻提早歸國,朝廷不允許他入京,只好暫時駐留在福岡縣觀世音寺,三十五歲那年才得以入京。
這時,桓武天皇已過世,失去庇護的最澄為了設置戒壇,只得主動接近空海。因為朝廷雖准許天台宗年度僧二人,但指定其中一人必須是密宗。簡單說來,最澄不得不拜後起之秀的空海為師。不料,兩人在度過一段蜜月期間,空海授予最澄金剛界、胎藏界灌頂後,竟然訣別了。
訣別的主要原因在於彼此的人生觀與宗教觀迥然不同。空海的目標是救濟民眾,而最澄卻致力於戒壇獨立。空海寬宏大量,能包容人,對事物看法富有彈性;最澄卻極為禁慾克己,寧折不彎,毫無妥協餘地。這可以從最澄與南都佛教論戰事件中看出,在這場論戰中,最澄簡直是口不擇言,竟罵對方為“粗食者”(原文正是如此,意思是吃得不好)。僧侶罵僧侶為“粗食者”,似乎有點矛盾,但也可以證明最澄的個性傾向偏執氣質。
兩位大師分袂的直接原因,說來好笑,竟然是“爭風吃醋”。最澄有位愛寵弟子,名為泰範。最澄讓泰範到空海處學密宗,沒想到泰範竟醉心於空海,不願意回到最澄身邊。為此,最澄寫了一封哀懇信給泰範,要他“回心轉意”。結果,空海代泰範回了一封斷交信,兩位大師自此便正式分道揚鑣了。站在最澄的立場來看,泰範離他而去,是一種背叛;但對空海來說,即便對方是弟子,師家也必須尊重弟子的選擇。
若要以個人才能來比較,空海理應比最澄棋高一著,然而,綿延不絕且始終高踞日本佛教進發基地的,卻是最澄的比叡山。道元、日蓮、親鸞等鎌倉時代新佛教的創始者,均出自比叡山。
在我看來,空海算是一種天才,抽象派(以曼荼羅圖案、咒術為重);最澄則是學究氣質,寫實派(以文字傳教為重)。或許,天才底下無天才,也或許,天才並非人力可以培育出來的,以至於高野山無法人才輩出,不得不歸向文化財保護委員會般的存在,死守著空海的遺產吧。
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空海・最澄年表 - http://goo.gl/OnXAzr
空海・最澄 年表 |
(2005-5-14作成)
空海:大阪・金剛寺蔵 | 最澄:兵庫・一乗寺蔵 |
西暦 | 年齢 | 日付 | 空 海 | 最 澄 |
767 | 漢系渡来氏族である三津氏を父として近江(現在の坂本あたり)で生まれる。幼名は三津首広野。帰化人という自覚をもっていたものと思われる。 | |||
768 | ||||
769 | ||||
770 | (光仁天皇即位)仏教の粛清を行い、山林修行を公認する。 | |||
771 | ||||
772 | ||||
773 | ||||
774 | 1 | 6月15日 | 讃岐国多度郡屏風が浦(現在の海岸寺、75番善通寺)で、佐伯直田公(さえきのあたいたきみ)と安刀(あと)氏出身の母の三男として出生。幼名は真魚(まお) | |
775 | 2 | |||
776 | 3 | |||
777 | 4 | |||
778 | 5 | |||
779 | 6 | |||
780 | 7 | 14歳で出家。 | ||
781 | 8 | (桓武天皇即位)中国皇帝的な事業と統治を行う。 | ||
782 | 9 | |||
783 | 10 | |||
784 | 11 | |||
785 | 12 | 東大寺で具足戒を受ける。 奈良仏教と決別し、比叡山に登り、山林修行のなかで「天台」の思想を構築していく。 |
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786 | 13 | |||
787 | 14 | |||
788 | 15 | |||
789 | 16 | このころから母方の伯父である大学者・阿刀大足(あとおおたり)に師事。 (伝承)71番弥谷寺の獅子窟で学問に励む。 |
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790 | 17 | |||
791 | 18 | 宮廷から「修行入位」という僧位を授けられる。 | ||
792 | 19 | 大足に伴われて上京(長岡京)、大学に入学。 | ||
793 | 20 | このころある沙門から「虚空蔵求聞持法」(こくうぞうぐもんじほう)を授かる。 阿国大滝岳(現在の21番大龍寺の舎心ケ岳)、土州室戸岬(現在の御蔵洞)に勤念。谷響きを惜しまず、明星来影す。 (伝承)和泉国槙尾山寺で沙弥戒を受ける。 |
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794 | 21 | 桓武天皇による平安遷都が行われ、奈良仏教に批判的な最澄が、宮廷に重んじられる。 このころ、国家的権威のある「内供奉十禅師」の一人とされる。 |
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795 | 22 | |||
796 | 23 | |||
797 | 24 | 4月9日 | (伝承)東大寺の戒壇院で具足戒を受ける。 | |
12月1日 | 思想劇「三教指帰」(さんごうしいき)完成。道・儒と仏教を比較し、仏教の優位、すなわち自身(仮名乞児)が官を捨て仏門へ入ることの正当性を主張。これに匹敵するのはゲーテの教養小説「ウイルヘルム・マイスター」であるとされる。 | |||
798 | 25 | (伝承)大和国久米寺東党の下で「大日経」を感得。 | ||
799 | 26 | 空白の時期 | ||
800 | 27 | 空白の時期 | ||
801 | 28 | 空白の時期 | ||
802 | 29 | 空白の時期 | 高尾山寺で天台著作(法華玄義、法華文句など)を講義し、和気氏の支援を受けるようになり、桓武天皇の知るところになる。 | |
803 | 30 | 空白の時期 | ||
804 | 31 | (続日本後記)31才で得度。 | ||
5月12日 | この日、4船団で難波の港を出帆して入唐の旅に上る。 第1船…「遣唐大使」藤原葛野麻呂(かどのまろ)、橘逸勢(たちばなのはやなり)、空海(留学生) 第2船…「判官」菅原清公、伝教大師最澄(還学生) |
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7月6日 | 肥前国田ノ浦(現・平戸)を出帆。 | 第2船は明州の寧波府に着き、最澄は弟子の義真を伴い天台山に登る。 第3船と第4船は行方不明。 |
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8月10日 | 中国大陸福州赤岸鎮(せきがんちん)の南に漂着。 | |||
12月23日 | 唐の都長安に東門(春明門)より入る。 | |||
805 | 32 | 2月10日 | 遣唐大使らは長安・宣陽坊を発って帰国の途につく。 | 最澄帰国。5月19日に出帆した船は6月5日に対馬に着く。 |
空海は逸勢とともに西明寺に残る。青竜寺の恵果の名声を聞き、訪ねる。 | ||||
6月13日 | 恵果より学法灌頂壇で胎蔵の灌頂を受ける。 | |||
7月 | 恵果より金剛界の五部灌頂を受ける。投華得仏では大日如来に落花した。恵果は空海に遍照金剛の名を授けた。 | |||
8月10日 | 恵果より阿闍梨位の伝法灌頂を受ける。わずか2ケ月で密教の大法をことごとく授かる。 | |||
12月15日 | 青竜寺の東塔院で恵果が入滅。 | |||
806 | 33 | 1月 | 門下を代表して恩師恵果の碑文を撰した。「「…弟子空海、故郷を顧みれば東海の東。行李を想えば難が中の難なり。波濤万々たり、雲山幾千ぞ。来ること我が力にあらず、帰らんこと我が志にあらず…」 | 最澄は正月3日に「年分度者」(得度を許される一定数の者)の新しい割当を申請する。律、華厳、三論、法相などの従来10人に、天台法華宗2人の追加をもとめたもので、これの許可によって、天台宗は公認されることになる。 |
大詩人・馬総は空海に対して「何ぞなんじ万里より来たれる。その才を衒うにあらざるべけんや。学を増して玄機を助けよ。土人、なんじが如きなるもの稀なり。」という詩を贈る。 | ||||
3月 | 20年滞在の約束にもかかわらず、長安を離れ、帰国の途につく。 | |||
4月20日 | 浙江省に到着、ここで4ケ月滞在。 | |||
8月 | 遣唐副使・高階真人遠成の船で逸勢と共に寧波から帰路につく。 | |||
12月13日 | 高階真人遠成は入京し復命。なぜか空海は大宰府に留めおかれる。 | |||
807 | 33 | |||
808 | 34 | |||
809 | 35 | 嵯峨天皇が24歳で即位し、重んじられるようになる。 | ||
2月3日 | 空海が最澄に刺(し)を投ずる。(刺ってなに?) | |||
8月24日 | 最澄は弟子の経珍を使いに空海が請来した密教経典12部を借覧。特に「大日経」に関心。 | |||
10月4日 | 「世説」8巻のうちの秀文を屏風にして嵯峨天皇に献上。 | |||
810 | 36 | 「東大寺要録」によれば、この年から813年まで東大寺の別当職に任じられる。 9月に薬子の乱。皇太子である高丘親王は廃され、出家して空海の弟子となる。後年、インドに渡海しようとして、途中の羅越国で亡くなる。(参照)渋沢龍彦:高丘親王航海記 |
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811 | 37 | 11月9日 | 乙訓寺の別当に任じられる。 | |
812 | 38 | 9月11日 | 空海から最澄へ書状「風信帖」。…風信雲書、天より翔臨す。… | |
11月15日 | 空海による高尾山寺の金剛界灌頂。最澄は進んで受者となる。(空海自書:「灌頂歴名」) | |||
12月14日 | 空海による高尾山寺の胎蔵灌頂。最澄以下145名が受者となる。 | |||
813 | 39 | 最澄は空海に阿闍梨灌頂を伝授するように願ったが、なお3年の実修を要すといって拒否される。 | ||
814 | 40 | 最澄の「法華一乗」と「真言一乗」は同じ大乗仏教であり、何ら相違ないという立場と、空海の顕教と密教とは次元が異なるという思想により、双方は離別していく。 | ||
815 | 41 | |||
816 | 42 | 6月19日 | 修禅の道場建立のため高野山の下賜を願い出る。 | |
817 | 43 | この頃から法相宗の会津の徳一と法論を戦わせ、そのなかで諸法実相という天台の思想を確立していく。 | ||
818 | 44 | 満濃池決壊。築池使の路浜継は3年がかりで修復を図ったが成功しなかった。 | ||
819 | 45 | |||
820 | 46 | |||
821 | 47 | 4月 | 満濃池修築別当に任じられ、6月からの3ケ月で完成させる。 | |
822 | 48 | 56歳で死去。 | ||
823 | 49 | 1月19日 | 嵯峨天皇より東寺(教王護国寺)を受預される。 現在も講堂に空海独創の立体曼荼羅(五仏、五菩薩、五大明王、六天)を残す。 |
比叡山寺が延暦寺と改名する。 |
824 | 50 | |||
825 | 51 | |||
826 | 52 | |||
827 | 53 | |||
828 | 54 | 12月15日 | 綜藝種智院を開設。教育理想を記した「綜藝種智院式じょ序」を表す。 | |
829 | 55 | |||
830 | 56 | 人間精神の弁証法的な発展過程を克明に説いた「十住心論」を著す。 | ||
831 | 57 | |||
832 | 58 | 高野山で万燈会を開き、願文「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、わが願いも尽きん…」を残す。 | ||
833 | 59 | |||
834 | 60 | |||
835 | 61 | 3月21日 | 高野山に死す。 | |
836 | ||||
837 | ||||
838 |
風信帖
<参考資料>
空海の風景(上)(下):司馬遼太郎,中公文庫,1978年初版(2005年改版22刷)
最澄と空海:立川武蔵,講談社選書メチエ(1600円),1998年初刷
空海:宮坂宥勝,ちくま学芸文庫(1100円),2003年初刷(初出:1984年)
空海の道:永坂嘉光・静慈園,新潮社(1300円),2004年初刷
四國八十八箇所(四国八十八箇所),是對日本四國島境內88處與弘法大師有淵源的靈場(寺院)之合稱,也簡稱八十八箇所,或稱四國靈場。巡拜四國八十八箇所則稱為四國遍路、四國巡禮。平安時代修行僧巡遊弘法大師的足跡,逐漸形成「四國遍路」的原型,江戶時代「四國遍路」的概念成立,巡禮者也不再只限於僧侶。[1]
阿波國之靈場是「發心之道場」、土佐國之靈場是「修行之道場」、伊予國之靈場是「菩提之道場」、讚岐國之靈場是「涅槃之道場」。
四國八十八箇所 - 維基百科,自由的百科全書 https://bit.ly/3Z7RLaf
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