機器人文化/江戶時代就已經出現被稱為「運茶童子」的簡易版機器人/陸船車/江戶時代齒輪造車/啟動日本機器人時代 @ 姜朝鳳宗族 :: 痞客邦 PIXNET :: - http://goo.gl/Cne5Rm

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《機器老男孩》,為什麼日本如此熱愛機器人?——《羅伯特玩假的?》
2016/02/15 |來自台灣好書搶先看專欄廣編社會群體科學傳播科技前沿透視科學|標籤:人形機器人文化機器人機器老男孩科普書
身為機器人大國,日本當然少不了以機器人為題材的電影,在 2012 年推出的《機器老男孩》(ROBO-G)就是其中相當受到矚目的一部。在這部機器人狂想曲中,標榜的並不是先進的機器人科技,而是穿插在其中人與人之間的感情。話說默默無名的木村電器公司營運狀況欠佳,為了力挽頹勢,老闆決定追隨機器人熱潮,開發全新功能的人形機器人,但隔行如隔山,事情那有這麼容易!果然技術沒到位,整個研發遭受大挫敗,眼看產品發表的日子就要到了,這可怎麼辦呢?狗急跳牆的員工們突發奇想,既然要開發模仿人類的人形機器人,那麼找個人穿上機器人的外殼不就好了嗎?於是乎他們找到一位身形與機器人相仿的七十三歲歐吉桑來 cosplay,就此展開出一連串爆笑、溫馨、又帶點淡淡憂傷的故事。

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一家小型家電公司在機器人博覽會的前一周,所開發的機器人因故壞損。員工們只好緊急招募人來「扮演」機器人,最後找到退休的 73 歲歐吉桑鈴木重光,但他假扮的機器人卻意外在博覽會上大受歡迎。
《機器老男孩》是由日本知名導演矢口史靖執導,老牌演員五十嵐信次郎擔綱演出這位自覺不受家人重視、又不甘寂寞的歐吉桑鈴木重光,反映出日本急速走入老年化社會時銀髮族的心情起伏。在熟齡的另一端,新生代偶像明星吉高由里子飾演熱愛機器人的宅女佐佐木葉子,一老一少有相當精采的對手戲。鈴木桑的機器人扮裝受到出奇的歡迎,也讓他想要藉此向鍾愛的孫子炫耀,這讓此假扮事件陷入曝光的危險,終於因為外露在金屬頭殼外的一根頭髮洩了底,眼看事情就要不可收拾,所幸在佐佐木的協助下化險為夷。劇終回歸歐吉桑身分的鈴木,看似過著如同當初一般的生活,但他的心情是全然的不同,原來經過機器人冷冰冰金屬外殼的洗禮,已然帶給他滿滿的溫馨。

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《機器老男孩》裡歐吉桑「扮演」的機器人與宅女,一老一少有相當精采的對手戲。 Source:傳影互動
深植人心的機器人形象
台灣對日本電影的接受度一向很高,這部電影談論的老年化的現象也不是日本獨有,跟隨日本的腳步,台灣的社會很快會經歷到類似的情境。但超乎預期的,這部在日本頗受好評的《機器老男孩》,卻沒受到台灣觀眾的青睞,上映沒多久就下片了。電影受不受歡迎當然有許多的可能性,並不是三言兩語就能說得清楚,但這樣的「結果」卻引發我強烈的好奇心。我的好奇並不是為了電影賣座與否,而是思考會不會因為日本和台灣在社會、文化面的差異,導致彼此對機器人電影的感受如此的不同呢?基於機器人領域的獨特性,不同於電視、冰箱,甚至是手機等產品,機器人標榜的是和使用者之間的高互動性,期待它能真正融入到我們生活中,也因此一般大眾對機器人的看法,絕對會影響到它的普及性,比方說:如果機器人給我們的印象就如「魔鬼終結者」那樣動輒砍殺人類,誰會想要啊?

反過來,如果是超級卡哇伊的「哆啦 A 夢」,那當然是歡迎光臨!而《機器老男孩》在台短暫上映的遭遇,也極可能因為片中的機器人形象不符合台灣觀眾對機器人電影聲光特效的期待。先來看看日本人是怎樣看待機器人文化?日本機器人的起源相當早,遠在十八世紀江戶時代就已經出現被稱為「運茶童子」的簡易版機器人,它會自行前往送茶,待主人喝完茶後,再將茶杯送回原處。想想看,十八世紀並沒有馬達,當然也不會有現今的微處理器或電腦,僅僅運用發條以及某種形式的動作記憶裝置就能完成整個奉茶任務,不禁讓人讚嘆當時工匠的手藝。也因此,日本對於自身開發的機器人科技驕傲極了,因為他們從古代就已經打下基礎。連帶地,也讓機器人文化在民間紮下深厚的根基,這份對機器人的狂熱,也反映在日本的機器人動漫傳統,由原子小金剛、哆啦 A 夢、鋼彈等大家耳熟能詳的動漫人物領銜,一脈相傳、不斷推陳出新,在在說明機器人在日本已經深植人心!

除了包括動漫在內的文化面影響外,從制度面來看,日本的終身聘任制也為機器人發展減少了阻力。機器人身為自動化產業的重要推手,無可避免地會面臨員工在面對產業升級時對失業的疑慮,就像全世界的產業在自動化的過程中或多或少都曾遭受到員工的抗爭,但日本的終身聘任制保障了員工的就業,因此也讓抗爭行動相對較少,樂於接受與機器人共存,而不是擔心機器人發展可能搶走自己的就業權利。雖然現今由於經濟、產業型態的改變,日本的終身聘任制有所鬆動,但仍然維持了一定程度的穩定性。因此在機器人科技的發展過程中,千萬不能小看來自社會、文化面向的影響,它們關係到機器人領域是否能在一個國家中蓬勃發展、發揚光大。

文化差異與機器人發展
再來請教大家一個問題,一個國家的民族性會關係到他們機器人科技的發展嗎?我覺得答案是肯定的。像我們對日本人的印象是既守時、又守法,大眾運輸系統總是那麼地精準,而紅綠燈號誌也不至於淪落到僅供參考的地步。可別低估這些行為的影響,因為這會讓機器人的流程設計因此變得簡單。由於機器人需要在井然有序、精確無誤的環境下工作。對照起台灣人的彈性和不愛受拘束的個性,我們的生活環境比起日本刺激多了,這一點就請大家想像一下尖峰時刻台灣人的開車方式吧!如果天天都要面對如此具挑戰性的環境,你覺得能在台灣存活下來的機器人需要有多大的本事呢?換句話說,台灣能不能像日本一樣成為機器人大國,就端看我們的社會是不是已經準備好、能不能真心接納機器人?

而在眾多值得開發的機器人類型上,日本對《機器老男孩》中那樣的人形機器人特別情有獨鍾,這應該也是基於日本人性格上的特性使然。日本人的個性可以用一個字來形容,那就是「ㄍ一ㄥ」(矜持)!非常害怕對不起他人、給別人添麻煩。也就是因為日本人的矜持,他們對於因為生病而導致在別人面前失態這件事情十分恐懼。即使面對老年化社會所帶來的醫療資源不足的壓力,也不太願意引進外籍醫護人員,這一點也反應在日本相對嚴格的移民規定上。可是眼前醫護人員真的很缺乏啊!那該怎麼辦呢?日本人的選擇是積極開發足以服務人群的機器人,因為在機器人的面前,即使很狼狽,也不至於感覺丟臉。也因此,日本開發機器人的態度極其認真,因為事關切身需要!這同時說明了為甚麼日本會特別著重在人形機器人的開發,就是想藉由它與人類相近的形體,能夠迅速融入我們的環境、提供生活上的照護。

所謂的性格決定命運,從前面的討論可以看出,原來民族性也會決定機器人科技的發展。仔細想想也不令人意外,當社會的氛圍、生活的環境適合某種類型的科技運作時,它就有機會萌芽茁壯,正如不同的土壤與氣候會孕育出不同的植物。日本人親近機器人的態度,讓機器人不僅僅是單純的科技產品,更是生活中的夥伴!也因此《機器老男孩》在日本之所以大受歡迎,其背後也透露出日本相當深厚的機器人文化。他山之石,可以攻錯,以日本為借鏡,我們也應該好好審視一下自己的文化脈絡與民族特性,就此走出一條屬於台灣的機器人之路。

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江戸へ行き、京へも行った陸船車

本庄市の人物が発明したからくり、とはいえ本庄市には陸船車についての文献などは残っていないそうだ。いきさつはこうである。

・庄田門弥がからくり作品の一つとして陸船車を作成

・これが評判を呼び時の将軍吉宗(この言い回し一度使ってみたかった!)に上覧されるまでに

・京都のからくり芝居にも類似のからくりが登場

・そんな陸船車の噂を小耳に挟んだ彦根藩士の平石久平次というお侍が図面をゲットし書き残す

・それが戦前にお寺から発見されて存在が明らかに

いろいろあって、ぎりぎり文献に残っていたということが分かる。
彦根藩士、平石久平次の記した陸船車の図面
彦根藩士、平石久平次の記した陸船車の図面
箱
文献を残した平石久平次もこの陸船車を図面から作ってみようしたようなのだが、写真の「箱」の部分がどうなっているかが分からずいきづまったそうだ(しかしその後独自案で完成させたらしい)。

大事な部分の書かれなさっぷりがすごいのだが、研究によってその構造も現代になって明らかになったという。
京都のからくり芝居でからくり人形を乗せて走ったという記録
京都のからくり芝居でからくり人形を乗せて走ったという記録
だいぶ豪華な感じに
だいぶ豪華な感じに

そして現代へ

このようにほとんど偶然のように現代へ伝えられた庄田門弥の陸船車。

復元を手掛けたのは博物館ではなく「本庄まちNET」という本庄市の市民まちづくり活動グループである。

今回の展示には冒頭でご紹介した実物大の模型のほか、2分の1模型、10分の1模型に150分の1模型が展示されていた。

……150分の1模型…いる?!
こちらが2分の1
こちらが2分の1
10分の1
10分の1
150分の1……
150分の1……

元館長の増田さんが作ってくれた

学芸員の佐藤さんの紹介で本庄まちNETの代表、戸谷さんにも電話でお話をうかがうことができた。

それによると、この陸船車の模型作りがスタートしたのは2008年。このために「からくり門弥プロジェクト」をグループ内に立ち上げて活動をすすめたそうだ。

2分の1模型で感触をたしかめつつ、2011年の11月に原寸大模型が完成。4年がかりの事業であった。

なお、150分の1の模型については「本庄市の歴史民俗資料館の元館長の増田さんがそういうの得意で。作ってくれたんですよ」とのこと。

特に必要があって作ったわけじゃなかった……! 

しかしそこに大勢が一生懸命手を動かしてプロジェクトを盛り上げているのが伝わってくる。律儀に展示する博物館の愛も感じた。

試乗できるんです

がらがらと展示場所から外へひっぱってくれた
がらがらと展示場所から外へひっぱってくれた
そんな大切な陸船車の原寸大模型であるが、特集展示の会期中には試乗日が設けられている。

この日は試乗日ではなかったのだが特別に乗らせていただけることになった。

からくりで動く自転車。一体どういう動きをするのだろう。

「座って、手前の棒の上の方を持って、歯車のペダルに足をかけて押す。それだけです。気を付けるのは棒の下を持たないこと。歯車が当たって痛いので」

佐藤さんの説明はシンプルだ。
両サイドの棒の、上の方を持つ。下を持つと板が当たってしまうにつき
両サイドの棒の、上の方を持つ。下を持つと板が当たってしまうにつき
水車のような仕組みともいわれるこの乗り物。足で歯車を下に押すことで下の歯車から車輪と回転して前進する。

体の重心を左右に傾けることで後輪を使って進行方向も変えることができるらしい。

まずは佐藤さんにこいでもらってみた。
えっちらおっちら
えっちらおっちら
……かわいい。上の画像では近づいてくる警備員さんもつい笑顔になっている。

自転車というよりもこのかわいらしい動き、見たことがあるぞ。ええと何だっけ。

思い出すべく続いていよいよ私も乗らせていただいた。
もう、楽しい以外のなにものでもない
もう、楽しい以外のなにものでもない
こいでみて一瞬で分かった。そうだ、子どものおもちゃでこういうのある。ペダルカーというやつだ。

自転車ですといわれると「……ほほう」といったところだろうか。確かに船ではないことは分かった。(ちなみに水にうかべるとどうなるかというと「沈みます」とのこと。ですよね!)

こぐ楽しさも大きいが、からくり的なかっこいい仕組みが目の前で動くのが面白い。こいでいると、来館のお客さんたちが自然と集まってきた。
乗りたい! と名乗りをあげたご婦人がそのまま結構遠くまでこいでいった
乗りたい! と名乗りをあげたご婦人がそのまま結構遠くまでこいでいった

時速14キロ出る?!

佐藤さんのこぐ様子を見ても自分でこいでもスピードを楽しむ乗り物ではないように感じたが、文献によると「一時(いっとき)に七里走った」とあるそうだ。

時速14キロである。ママチャリの時速がだいたい10キロくらいだというからずいぶん速い。

佐藤さんに聞くと「うーん。想像するしかないのですが、理想が入っている……のかもしれませんね」ということだった。

博物館の展示品というのでちょっとかまえていた部分があったが、さては「憎めない」キャラでいく感じの乗り物だな。
幕がはずれてはなおしてもらっていた。憎めない!
幕がはずれてはなおしてもらっていた。憎めない!

なんで船っぽいのか

そうそう、初見から疑問だったなぜ船のような形なのかということについても教えていただいた。

発明された当時、乗り物の「ボディ」といえば船、だったそうなのだ。確かに自動車もまだない時代である。

名前のとおり、船を陸に上げて走らせようというものだったのだろう。

それが自転車の始まりかと思うと陸に上がった生物がその後陸上で進化したみたいな話である。

たっぷりみられる埼玉と自転車

そのほかにも特別展には貴重な自転車が
そのほかにも特別展には貴重な自転車が
陸船車だけでなく、特別展には越谷市内の(忘れたころにきっちりやってくる埼玉)廃業した自転車店から見つかった自転車などが展示されていた。

「この自転車、見つけたの従業員の三輪さんって方なんですよ! すごいでしょう。三輪車を三輪さんが」

佐藤さんの鼻息もここ一番の荒さに。ここか。
かと思えばふつうの自転車?
かと思えばふつうの自転車?
さらに展示の最後に「ふつうの自転車」が置いてありどこか現代美術みたいなことになっていたのだが、これ、前かごとランプだけは交換されているものの1955年購入と約60年前の貴重な自転車だった。

状態があまりに良いのでそんなに古いものだとは思わなかった。

山口自転車(現在のアサヒサイクル)というメーカーの女性向けの自転車で、つい先日まで乗られていたというからぐっとくる。
すごく丁寧に乗られていてきれい
すごく丁寧に乗られていてきれい
「年をとって大きな自転車をこぐのがしんどくなったので別の自転車買うからということで寄贈してくれた」そうだ。

なお、山口自転車は工場が川口市にあったとのこと。最後まで埼玉の手をゆるめないのはさすがである。

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自転車の歴史探訪


 
日本に伝来したのはいつ頃か?

 ドライジーネからミショーまで話は進んだ。そろそろ極東の小さな島にも自転車が現れる時期である。
 ドライジーネは、日本の土を踏んだのであろうか?今のところ、その形跡はない。

 明治3年(1870年)発行の「絵入り知慧ノ環」という初等教育の教材に「自在車」という名でホビーホース(英国名、Hobby horse 他にダンディーホース Dundee horse とも呼ばれていた。1818年頃)が載っている。

 1870年といえば、すでに欧州ではミショー型自転車が全盛であった。日本にもその情報は入っていたと想像されるが、この画から判断するかぎり自転車と自在車が同一のものという認識を欠いているような気がする。認識していれば、このような画を教材に使うこともなかったはずである。恐らく明治3年のこの時期には、ドライジーネも、ミショーも日本に入っていなかったと思われる。
 ただ、三輪車は幕末の横浜に渡来した可能性がある。1865年(慶応元年)の発行である(『横浜文庫(横浜開港見聞誌)』玉蘭斉貞秀作)に、自輪車という名の三輪車の記事と挿絵がある。この本があるからといって直ちに、その三輪車が横浜に実際あったとは断言できないが、それを否定する根拠も無い。
 私は、前項の「車輪について」の中で、次のように述べた。

   自転車の歴史に、広義的に三輪車などを入れる場合もあるが、本稿での自転車の歴史は直列二輪のものを自転車と定義したい。自転車の歴史の中で、この直列二輪の発明が最大のものであるからだ。自転車たる所以もそこにあると思う。

 だから三輪車には触れないつもりでいた。しかし、日本の自転車の歴史を記述するにあたり、これは、どうしても避けては通れないと感じた。なぜなら、江戸時代にドライジーネもミショーも到来した痕跡がないからである。

 三輪車構造の乗り物は古く、西欧では中世までさかのぼる。或いは、それ以前にも存在するかも知れない。それだけ未知の部分が多いのである。三輪車や四輪車の歴史は、直列二輪車に較べ息が長いのである。

ステファン・ファフラーの三輪車
手動クランク・ギア方式 1689年
「馬車の歴史」ラスロー・タール著 平凡社
 例えば、1420年頃には、ジョバンニ・フォンタナの考案した手動式四輪車がある。その他、ドイツ・ニュールンベルグのヨハン・ハウチは、デンマーク王のために四輪の足踏み駆動式の馬車を考案し、献上したと伝えられている。さらにハウチの車を参考に、ニュールンベルグ近郊のアルトドルフに住んでいた時計職人のステファン・ファフラーは、1689年に手動式の一人乗り三輪車を考案している。彼は、両脚がなかったため自分も含めた身体障害者用の乗り物を考えたのである。この三輪車の細かい構造はよく分からないが、クランクとギアにより、前輪を駆動させるものであった。時計職人の彼にとって、三輪車の歯車構造などはおてのものであったに違いない。
 前輪の上部に箱のようなカバーがあり、箱の左右からグリップの付いたクランクが出ている。これを手で回転させることによって、ギアの付いたシャフトが回り、前輪を駆動させる仕組みである。
 もし、彼が健常者であるならば、足を使ったはずである。取っ手をべダルに変更するだけで、足でも踏むことができる。
 ニュールンベルグ図書館の資料によると、彼は、1689年10月24日に57歳で亡くなっているので、この三輪車を考案したのはそれ以前ということになる。

 日本に目を向けると、先にも触れたことだが、鎌倉時代に三輪車の構造をもつ模型のような車が出土している。従来、三輪車の構造をもつ車は、江戸時代まではその例がなく、中世までは並列の二輪車(牛車)しかないとされていたのである。

 正安元年(1299)の『一遍聖絵』には、四天王寺で特異な車輪付きの小屋が描かれている。四隅に小さな中実車輪が付いていて、どうやら一人乗りであるらしい。いつでも簡単に移動できる屋根付きの四輪車である。移動はもっぱら車から降りて、手で押したと思われる。或いは、足の無い障害者が使用したのかも知れない。そうなると押してもらったのであろうか?棒で地面をかいて自分の力だけで移動したのかもしれない。

 その他、車なのか舟なのか判断に困るような、からくりも江戸時代に出現している。中国風の衣服をまとった乗り手が舟型の三輪車を繰り出している。中国から伝来した乗り物なのであろうか?それとも日本独自の乗り物か?よく分からない。これは、1730年(享保15年)『からくり訓蒙鑑草(3巻)』多賀谷環中仙作に「陸舩車」 という名前で載っている。それから2年後の1732年(享保17年)には、やはり舟型の三輪車が現れている。陸舩車の改良型なのであろうか?こちらの方は動力にペダルクランクを採用している。(「新製陸舟奔車之記」滋賀県彦根市立図書館所蔵)

『からくり訓蒙鑑草』多賀谷環中仙 享保15年(1730) 復刻版

『からくり訓蒙鑑草』多賀谷環中仙 享保15年(1730) 復刻版

 これら舟型の乗り物を自転車の範疇に入れることは、系統的な継承性等から判断して疑問が残るところであるが、広義的には自転車なのかも知れない。学識者の判断に委ねたいと思う。

 松平文庫(松平宗紀氏蔵・福井県立図書館寄託)の「御用日記」(文久2年2月6日条)に、自転車と思われる記述がある。文久2年と云えば1862年である。
 その資料には次のように書いてある。
「権六(佐々木権六)罷出ビラスビイデ独行車相廻り組立出来靭負(家老、中根雪江)も罷出御馬場辺御乗試被遊候」

 これは当時、松平春嶽が、江戸霊岸島の藩邸で独行車という乗り物に乗った様子を記述したものである。
 はたして、この独行車は如何なる乗り物なのか?自転車なのか?馬車なのか?そしてビラスビイデとはどのような意味なのか?ヴェロシペッドの意味なのか?独行車の図や絵が出てくると面白いのだが。いまの段階でこれを自転車と断定することは出来ない。

 どうやらミショー型自転車の到来は、明治まで待たなければならないようである。確たる当時の資料や現物が未だに発見されていないからである。

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