日本聖德太子的轉世奇緣
作者:洪熙
聖德太子以生生世世累積的福德,振興日本佛法,誓願如願以償,成為照亮整個飛鳥時代的第一人。圖為《聖徳太子勝鬘経講讃圖》。(公有領域)
《唐大和上東征傳》是研究鑒真(唐朝僧人,日本佛教律宗開山祖師,著名醫學家)東渡日本,最詳實、最原始的史料,由日本天智天皇後裔真人元開編撰。根據書中記載,鑒真在揚州大明寺講過一句話,他說:「以前,我聽說南嶽慧思禪師圓寂後,為了興隆佛法,托生為倭國王子。」倭國王子指的就是日本飛鳥時代的聖德太子。鑒真這句話,揭開一樁國際穿越奇聞。
王妃奇夢 神僧相告寄宿
根據日本史《聖德太子傳歷》所說,聖德太子還沒有降生時,他的母親在夢中看到一名金色神僧,站在她的面前。僧人說:「我有救世的願望,想暫時寄宿在王妃的腹中。」王妃問:「您是誰?」僧人說:「我,救世的菩薩,住在西方世界。」王妃說:「可是我是俗人,腹部骯髒,貴人怎麼能寄宿呢?」僧人說:「我不介意。只是希望托生人間。」王妃不敢再推辭。王妃懷孕後,變得聰睿慧敏,尤其善於辯論和領悟法理。
王妃分娩時,從西方射下金色的光芒,照亮了王宮。敏達天皇聽說此事,率人一同探訪,那團耀眼的金色光芒依然存在。
鑒真第六次東渡圖(公共領域)
小太子憶前生
太子二歲時,二月十五日那天早上,奶媽看到小太子雙手合十,面向東方朝佛禮拜,儼然成人的模樣。太子三歲時,父王抱著他遊覽後花園,笑著問他:「我兒,你喜歡什麼?桃花還是松針?」太子說:「我喜歡松針!桃花短暫,松樹萬年常青。」
太子六歲時,冬天十月,位於朝鮮半島的百濟國派遣禪師、僧人等人來到日本。一天,太子在天皇床邊侍候,說:「我想看看百濟國進獻的經書。」敏達天皇問他:「為什麼?」
太子說:「昔日,我住在中國,於衡山修行,聆聽佛的教誨,今天想看一看百濟進獻的經書。」天皇聽後驚訝萬分:「你才六歲,常在朕的身邊。你什麼時候去過中國呢?可不要撒謊噢!」太子說:「那是我的前世,所以我記得。」
用明天皇二年,16歲的聖德太子奉命征討叛軍。事先他命人砍伐樹木,雕刻了四大天王神像安置在軍隊中,用以祈禱,提振士氣。太子大勝後,將叛賊的家產全部捐給寺院,並修建了四天王寺和法興寺。
聖德太子(圖中)像(公共領域)
太子攝政 憶前生弟子
推古天皇元年,聖德太子22歲,天皇賜封他為皇太子,由他代理國政,太子婉言推辭,並再次提到,過去世在中國,他轉生過數十次,今世降生皇族,是想出家修道,興隆日本國佛法。但是天皇不允許太子出家,聖德太子不敢再推辭,只好代理國政。
天皇常常聽太子講解經典,知道佛法不可思議,於是發下大願,一心供佛,出資塑造佛像。推古天皇二十二年,天皇選了一千人出家,振興佛門。
推古天皇十年,百濟僧人觀勒來,來到日本進獻天文、地理、遁甲、方術等書籍。這名百濟僧人還挑選了三四個人學習曆法、方術,都是學業有成。
一天,太子對左右的臣子說:「以前,我在衡山修行。這名僧人曾經是我的弟子,常常不離我左右。他經常談一些天文、山河以及小道的事。我托生到皇族,他也追來了。」
聖德太子在中國累世轉生,多世在中國衡山修行。(公有領域)
聖德太子在中國累世轉生,多世在中國衡山修行。(公有領域)
使團出使中國 小野尋回經書
推古天皇四年的一天,太子和惠慈法師一起研究佛經。忽然,太子指著經書說:「《法華經》中,這句落了一個字。恩師,您以前見到的版本,也是這樣嗎?」惠慈說:「其它國家的經書,這裡也是沒有字呀!」
太子說:「這句中應該還有一個字。我記得以前我念的那卷經書中,是有一個字的。」
惠慈問他:「殿下念的那卷經書,現在什麼地方?能否看一下?」太子微笑著說:「在衡州的衡山寺。」惠慈大為感歎,雙手合十頂禮。
推古天皇十五年,太子上奏天皇派遣使臣小野妹子(日本飛鳥時代的政治家,以遣隋使的身分於607年與609年兩度被派遣至隋朝)前往中國,取回那部佛經,作為標準刊物。
小野妹子出國前夕,聖德太子詳細告訴他衡山的方位,進山的路線,山裡僧人的現狀。他將幾套僧服交給妹子,叮囑他一定要送給南嶽衡山的僧人。小野妹子抵達中國後,按照太子事先的囑託,找到了山中的僧人,轉交了太子的禮物,如願以償地取回了經書。
推古天皇,是日本第33代天皇、日本歷史上第一位女天皇。(公有領域)
太子修行有素 未卜先知
聖德太子主掌國政,日理萬機,但修行的功夫一點都沒有落下。有一次,太子觀察天氣的變化,知道將有地震,就命人抓緊時間加固房屋。
推古天皇二十六年,47歲的太子對大臣說:「中土正在興兵大戰,有一大國將要滅掉小國,李姓將會應命出世。大隋的國運,今年就要終結了。」後來李淵李世民父子太原起兵,滅了隋朝。太子預言果然不差。
同年冬天,太子召請太子妃,為她講述因果,以及他在中國累世轉生的情況。太子說:「有一世,我出身卑微,偶然聽到法師講法,我就剃髮出家,成為沙彌。修行了三十多年,死於衡山山腳下。今天想起來,當時應該是晉朝末年。後來,我投胎於韓氏,再次降生為人,發誓生生世世弘傳佛法,於是登上衡山修行了50多年,當時是宋文帝主政時期。我去世後,托生於勾氏,再次得到男身像,出家為道。經過四十多年,我死去後托生於高氏,當時是齊王君臨天下,我又到衡山,修行了六十多年。至梁朝時,我托生為梁相的兒子,還是到衡山修行,這一生歷時七十年。當時,我發願一定要托生到東瀛,傳揚佛法。」
太子表示,如果今生結束,將來要托生到貧窮的人家,繼續入道得法。他希望太子妃不要因此悲傷。
推古天皇二十九年春,太子在斑鳩宮,命太子妃沐浴更衣。他本人沐浴更衣後,對太子妃說:「今天晚上,我要遷化了。你可以跟我一起去。」次日,內侍發現太子和王妃雙雙圓寂。消息傳出後,舉國悲慟萬分。
日本從推古朝到大化革新,稱為「飛鳥時代」,這時期日本佛家文化興起和廣傳,成為日本當時文化繁榮的亮點。聖德太子多世在衡山修行,以生生世世累積的福德,振興日本佛法,如願以償,成為照亮整個飛鳥時代的第一人。他和衡山的奇緣,也在日本留下千古佳話。@*


【文史】日本聖德太子是慧思禪師轉世? | 高僧 | 大紀元 - https://goo.gl/LgHzJt
日本聖德太子是慧思禪師轉世?
www.epochtimes.com查看原始檔七月 25日, 2017
聖德太子孝養像(網路圖片)
千年前沒有網絡,中國和日本傳遞一條最簡單的信息都要乘風破浪駕舟遠航。隔著茫茫大海,但兩國對陳朝慧思禪師留下驚人一致的記載。
《唐大和尚東征傳》是研究鑒真東渡最翔實、最原始的史料,其中記載著鑒真在揚州大明寺講的一段話,他說:「昔日,我聽說南嶽慧思禪師遷化後,托生為倭國王子,以興隆佛法。」這個倭國王子就是聖德太子
聖德太子儀容英俊,為人慈善,且頗有治國之才。太子學習佛學,並博覽儒家經典公元604年,聖德太子採用中土文化佛道兩家及儒學的德育教誨,頒布《十七條憲法》。此憲法內容被稱為日本今日文化的基石。
聖德太子孝養像(網路圖片)
日本推古天皇十五年夏,聖德太子36歲時,奏報天皇:「臣的前世在漢土修行,曾經誦持一部佛經,至今還留在衡山。希望您派遣使者前往漢土將它取回,以作為校正失誤的標準文本。」天皇聽後非常驚奇,問哪位大臣能夠擔當出使大任?聖德太子悄悄為上百名大臣相面,遂後回奏說:「小野妹子最適合。」
同年七月,小野妹子等人奉命出使隋朝。太子對妹子說:「在隋朝江南道有一衡州,州中有一座衡山,就是南嶽。山中有一座般若台,沿南溪走三四里,會看到谷口旁有一扇門。當時一同修行的僧人已遷化,還有三人。你帶著這些僧服,以我的名義送給他們。昔日,我在衡山修行,常常誦念一卷佛經,還留在那兒,你幫我取回來。」
聖德太子(中)及其皇弟殖栗皇子(左)和長子山背大兄王(右)的肖像畫。雕版印刷畫,公元8世紀。(公共領域)
小野妹子率領使團到達隋朝後,他按照太子叮囑的路線循跡而去,果然看到谷口有一扇門。小野妹子用日本方言高聲喊道:「慧思禪師的使者來了。」院裡的三位老僧聞聲走出來,妹子對著他們再三禮拜。
雖然言語不通,但書寫的都是漢文。雙方就在地上一面寫一面溝通。三位老僧終於明白小野的來意,喜悅地接受太子贈送的衣服,並將慧思禪師生前讀的那卷佛經,以及舍利、名香、書信等物一併交給小野,由他帶回日本。
這段記載出自日本古史《聖德太子傳歷》,聖德太子攝政後,一直勤心庶政和佛學,並未到過中國。而使臣根據太子的叮囑,順利地找到了那卷經書。因此,後世認為,陳朝慧思禪師遷化後,托生為日本太子,為的就是興隆佛法。這一說法,也被大唐高僧鑒真所肯定
那麼,備受日本和漢土僧眾尊敬的慧思禪師,究竟是何人?
慧思禪師,俗姓李。年少時,他就以寬宏仁恕聞名鄉里。15歲那年,他在夢中看到一位天竺梵僧勸他出家修行,於是辭別父母,步入佛門。他跟隨慧文學習禪定。
慧思禪師(網路圖片)
一日,禪定中他的身體好像得了重病,四肢癱軟無力,痛苦得身不由己。慧思自我審查,意識到這是自己往日造下的惡業所致。慧思對身體的痛苦置之不理,將自己的念頭緊緊抓在手中,一心一意入定。隨後,慧思感受到身體就像天上的白雲一樣,輕輕飄飄非常清淨。由此,禪定也進入勝境。
在善惡同在的塵寰,並非所有人都能認可修行之人。一天,一個厭倦僧人的鄉民,一怒之下將慧思居住的草房燒了。這個鄉民後來得了一場大病,百醫無效。病入膏肓的鄉民找到慧思,篤誠地向他懺悔,並重新為他搭建一所草屋。慧思在草屋中像往常一樣誦經禮佛。不久後,這個鄉民的病竟自己痊癒了。
慧思常常在夢中得到梵僧對他的開示和教誨,夢見彌勒和彌陀為他說法。慧思想:能在末世受到佛陀的引導,真是三生有幸。
古往今來,因為妒嫉致使人失去理性,加害修行正法的人,這樣的例子有很多。慧思身具才德,對道法領悟也頗為靈敏,有人怨恨他的聰慧,就在他的飯中下毒,但卻未能得逞。外道的人策劃謀害他,也都沒能實現。
慧思對此都不放在心上,他說:「昔日,聖人在世時,還要遭受流言蜚語的毒害,何況我是無德之人?這些加害難以逃脫,是因為我前世做了錯事引起的。加害我的人來了,我要坦然接受,以此贖清我的罪過。」
陳朝光大年間,慧思帶著眾徒遷徙到南嶽。慧思在此授徒,聲望日隆,眾人也都慕名而來。有一個異道,因為妒嫉慧思的名望,於是密告陳朝皇帝,說慧思聚眾造反。經查證,實為誣告。不久,這個告密的異道就暴斃身亡,另外兩個參與密告的人無意中被瘋狗狂咬身亡。
陳朝皇帝欽佩慧思道法高深,傳旨派人將慧思接到棲玄寺,接受朝廷的奉養。陳朝大臣以及僧俗大眾都為慧思的說法而傾倒。大督都吳明徹敬重慧思德行,送給他一個非常昂貴的犀牛枕。李孝威將軍到寺中拜見慧思,他在半路上曾想,要看一看犀牛枕。等來到慧思的住處,禪師對他說:「將軍想看犀牛枕,請隨我來吧。」
一天,李將軍正在府中處理雜務,忽然心有所感,要趕快打掃一下庭院,一會兒聖者就到。李將軍命人清掃宅院。剛掃完,慧思就到了。李將軍驚喜之餘,又仰慕不已。慧思想回到南嶽。眾人不敢挽留,恭敬地用船把他送到江邊。慧思禪師離開後,陳朝皇帝每年派人傳達三封書信,以表對禪師的敬重和牽念。
陳朝太建九年(577年),慧思特意從山頂上下來,住到半山腰的道場召集大眾,他殷殷勸導僧眾,在他遷化後,要勤修佛法,苦行之事雖然艱難,但也要堅持下去。
聖德太子和慧思禪師,身在不同的國度,不同的時代,都致力於興隆佛法,廣行善化的大業。雖然難以證實聖德太子是否就是慧思禪師轉世。但有一點可以說明,文明的締造伴隨著信仰;文化的興起得益於正統文化蘊涵的智慧。聖德太子以中土文化治理國家,教化庶民,這或許就是他能夠照亮飛鳥時代的原因所在吧。@*


 

 

冠位十二階(日文:冠位十二階)確立於603年,是日本飛鳥時代確立的一個冠位制度。聖德太子立定的「冠位十二階」,各以的濃淡兩色的「紫、青、紅、黃、白、黑」六種顏色,來代表「德、仁、禮、信、義、智 」。

具體的顏色如下所示

2015-10-02_161156  下載 (11)imagesGGG  

  冠位十二階,為日本官位制度之嚆矢。雖大化三年(西元六四七)以後冠位制度屢有變遷,但仍以冠位十二階為依歸。故冠位十二階在日本位階制成立史上,有其重要地位。推古天皇十一年(六○三),聖德太子依儒教之德目制定官位,分為:大德、小德、大仁、小仁、大禮、小禮、大信、小信、大義、小義、大智、小智共十二階,授與有功勳之臣子,且以一代為限。期以打破古來氏姓制度及地域觀念,啟門人才登用之路。自推古王朝至大化革新,先後凡四十年之間,實施冠位制,建立豪族新秩序,確有相當之貢獻。日本史學家咸認冠位十二階,係模倣大陸及半島國家諸制度而來,尤以當時與其關係最密切之百濟國影響最大。上項冠位制是以百濟之官位為中心,參照高句麗之制度而創設。據史載冠係色絹所製,其頂如囊,唯元日著髻花(即冠上裝飾)。其冠十二階顏色,未有詳細記載,但髻花有:「大小德用金,大小仁用豹尾,大禮以下用鳥尾」之記述。隋書倭國傳亦有:「至隋其王始制冠,以錦綵為之,以金銀縷花為飾。」之記載。論其品級而言,在推古十一年創冠位制時,以大德為最高,小智為最低。但大化三年,位階變遷為十三階,次序為:大織、小織、大繡、小繡、大紫、小紫、大錦、小錦、大青、小青、大黑、小黑、建武。推古時代之大德、小德,祇能比照大化三年之大錦而已。(余承業)

-----------------------------

日本古代官制。公元604年,聖德太子根據管理的才能和功績分別授予十二種官位的製度。其具體內容是:以德、仁、禮、信、義、智各分大小,組成十二級官銜;並以紫、青、赤、黃、白、黑六種顏色各分濃重的冠帽來區分官位的高低。
中文名 冠位十二階 時 間 公元604年 制 度 古代官制 國 家 日本
此項措施在一定程度上起到了抑制氏族門閥勢力和選拔人才的作用。聖德太子一掃過去由豪族佔有官職的情形,採不論出生,家世,只要對國家有貢獻能力的人便可以獲得採用的「冠位十二階」。這是個將官員分成12個等級,並以冠的顏色作為區別的製度。即大德、小德、大仁、小仁、大禮、小禮、大信、小信、大義、小義、大智、小智等十二階,每一階都使用當色來製作冠帽。據考證,所謂的當色,即指與階位相當的色彩,當時的色階共有六色,由上而下是紫、青、赤、黃、 白、黑,由此推算,每一種色彩應對應兩個官階。大化三年(647年),又制定了七階十三色制度,由上而下為深紫、淺紫、緋、組、綠、黑。

日本古代官制。公元604年,聖德太子根據管理的才能和功績分別授予十二種官位的製度。其具體內容是:以德、仁、禮、信、義、智各分大小,組成十二級官銜;並以紫、青、赤、黃、白、黑六種顏色各分濃重的冠帽來區分官位的高低。

-------------------------------

聖德太子的冠位制度,是依儒教品德的名稱分為十二階級。十二階冠位是採自我國古代以來,即以十二為基準數的精神。史記卷二十七天官書有十二皇、十二州、十二諸侯,而天子之祭服也備十二章之文(後漢書卷四十輿興服志下)。天子之冕懸有十二旒之玉珠。是故聖德太子製定冠位十二階,是有其根據的。太子冠位制度,不但為改革氏姓制度的先河,並為打破世襲門閥之嚆矢,確定中央集權政治權威。就如坂本太郎說:“冠位制度之願意,第一可說是在上古末期之混亂社會所放出之打破門閥,登庸人才之新政策之先聲。第二 ​​是文化意識之昂揚,蓋其後朝廷之施設,政治之形態,以及文化等各方面之飛躍之進步,莫不以此為嚆矢”。

 

康熙龍袍/明太祖朱元璋-龍袍服飾/乾隆皇龍袍/明皇帝十二章袞服龍袍/皇帝的龍袍上都繡有九條進龍,胸前、背後各一,左右兩肩各一,前後膝蓋處各二,還有一條繡在衣襟裡面。龍袍上並繡有9條龍,間以五色雲彩。領前後正龍各1條,膝部左、右、前、後和交襟處行龍各1條,袖端正龍各1條。龍袍並不是專供皇帝穿著,郡王及以上都可以穿,只是不能用黃色,其他官員是不能穿著的,只有得到皇帝親賜才能穿著,但在穿著必須“挑去一爪”,以示區別。在明朝,經改制後的龍袍,稱為蟒袍 @ 姜朝鳳宗族 :: 痞客邦 PIXNET :: - http://goo.gl/LaIQ2U

-----------------

日本古代的官制。聖德太子根據管理的才能和功績分別授予十二種官位的制度

公元603年,聖德太子根據管理的才能和功績分別授予十二種官位的制度。其具體內容是:以德、仁、禮、信、義、智各分大小,組成十二級官銜;並以紫、青、赤、黃、白、黑六種顏色各分濃重的冠帽來區分官位的高低。此項措施在一定程度上起到了抑制氏族門閥勢力和選拔人才的作用。

------------------------

冠位十二階と憲法十七条

「みなさん!今日は大切なお知らせがあります」

がやがや…
「何が始まるんだ?」「さあ…」
603年12月5日、聖徳太子と大臣蘇我馬子が、役人たちを小墾田宮(おわりだのみや 奈良県明日香村)に召集します。
役人たちが沸き立つ中、聖徳太子は、よく通る声で話し始めます。
「この国をよりよくするためにはどうしたらいいか?
私たちは考えました」

「私と、大君(推古天皇)と蘇我の大臣とで、
考えました!」

「そこで、私たちは意見の一致を見たのです!
今まで制度の、何がいけなかったのか、という点において!」

ざわざわ…

「親が偉ければ子も偉い。親が貧しければ子も貧しい。
それでいいんでしょうか?
不公平だと思いませんか?ね、そこのあなた!
そうそう、あなた、どう思います?」
「え、まあ、そりゃあ…」
「しかし太子さま、われわれ貧乏人にはどうにもなりませんよ」
「ごもっともです。貧乏人の子は貧乏人。
努力してもしょうがない。これは残念ながら、事実でした」

「昨日までは!」

ざわざわっ…

「私は今日、新しい制度を提案したい!
みなさんに、提案したい!
身分や家柄に関係なく、手柄を立てたり
能力のある人は出世できる新しい官位制度を!!」
「徳・仁・礼・信・義・智。
それぞれを大小に分け、ぜんぶで十二階の官位。名付けて…」

 

「冠位十二階」

「そして、各階ごとに冠を授け、一目でわかるようにします」
冠位十二階
【冠位十二階】

「へーえ、じゃあ遠くからでも冠の色を見ればわかるなあ」
「そりゃあ、わかりやすい」
「遠くから偉いのが近づいてきたら、へへーって頭下げりゃいいし、
下っ端がきたら、こっちがふんぞり返ってりゃいいんだ」
「それよりも、頑張り次第で出世できるってのが張り合いあるよ」
「よし、俺は頂点に立ってやるぜ!」
その場に並み居る役人たちは、大いに盛り上がっていました。

「馬子殿、うまくいきますかね」

「皇子さま、我々の手で、うまくいかせるのです」

憲法十七条
翌604年4月3日、聖徳太子が斑鳩宮に役人たちを招集しました。
がやがや…
「今度は何だろう?」
役人たちが沸き立つ中、歩み出た聖徳太子は、よく通る声で話し始めます。
「みなさん!今日は大切なお知らせがあります」

「またかよ…」

「この国をよりよくするためにはどうしたらいいか?
私たちは考えました」

「太子もヒマだなあ…」

「細かい規則や決まり事も必要でしょう。しかし!
それらの大元となる、心構えを文章として記しておく必要がある。
私はそう考えるのです。これを憲法といいます。」
「憲法…?」
がやがや…
「一つ、和をもって貴しとなせ」
「喧嘩するなってことか…」
「仲良くすりゃいいんだろう」
「二つ、篤く三法を敬え」
「仏教を重んじろってことですね」
「太子は仏教に熱心ですからなあ」
「三つ、大君の詔(みことのり)を受けたら必ず従いなさい」
「九つ、何事も真心で」
「十二、人民から搾取してはならない」
「十七、物事は一人で判断せず、みんなで話し合って決めよう」
このように、役人たちの前で全十七条が読み上げられました。憲法十七条。十七条の憲法。わが国最初の成文法です。
現在の憲法とは違い、役人や豪族が守るべき心構えを示したものです。儒教や仏教の影響が強く見られます。
ただし後世の創作という説や聖徳太子がつくったのでは無いという説も多く、今後の研究が待たれるところです。

冠位十二階は「徳・仁・礼・信・義・智」の儒教の徳目で分けられたものです。紫・青・赤・黄・白・黒の冠の色に、それぞれ濃淡をつけて大・小とつけて区別しました。紫以外の色は、中国の「人間も社会も自然も、五つの元素である木・火・土・金・水の一定の循環法則に従って変わっていく」という五行説に基づいており、一番位の高い紫は、道教の尊いものを大切に扱うという色なのです。遣隋使として隋に派遣された小野妹子も、この制度で出世した一人です。聖徳太子が定めた冠の色は以下の通りです。

 

大徳

小徳

大仁

小仁

大礼

小礼

大信

小信

大義

小義

大智

小智

                       
 

このように色と地位が取り決められましたが、日本全国、全ての豪族や官人達にこの冠位が与えられた訳ではありませんでした。畿内やその周りの豪族のみに限られ、大豪族である蘇我氏や皇族には冠位は与えられていませんでした。当時の大臣は、大徳に定められた紫とは、別の紫の冠を着けていたとされています。大臣であった蘇我馬子は、聖徳太子と共に、冠を伝授する立場だったのではないかと言われています。こうして定められた冠位十二階は、大化の改新を迎えて、その後、冠位が増えてたびたび改正されていきました。

冠位十二階の昇進

冠位十二階は、それまで豪族による血族主義の世襲制と違い、能力さえあれば役人になれるものでした。さらには、昇進が可能な制度でもあったのです。隋に派遣された小野妹子は大礼という位にいましたが、最終的には大徳の地位まで登り詰めました。その他にも、何人もの人物が大礼から大仁へ、大仁から小徳などへ昇進したと言われています。小野妹子のように、遣隋使としての役割を果たした後に、異例の大出世を果たした人物もいて、努力や成果次第では、どんどん昇進することができました。これは十七条憲法の第十一条に、優れた働きや成果をあげた者には、それなりの待遇をするとされているからです。

血族主義から能力主義へ

これまで、豪族が権力争いにより政治を担ってきていましたが、聖徳太子が目指していた政治は、十七条憲法でも取り上げますが、豪族によるものではなく、天皇が絶対権力を持って行う政治でした。そのため、豪族による世襲制の政治を行う血族主義ではなく、能力のあるものが政治を行う能力主義へと変えていこうと考えたのです。この制度は一代限りのもので、それまでは能力がなくても親が力を持った豪族であれば、それを代々受け継いできました。しかし冠位十二階は、その人物ためだけのものであり、たとえ子供でもその地位は譲れないものとなるのです。そうするためには、様々な取り決めを行わなければなりませんでした。それまでは、それぞれの豪族が作っていたバラバラのルールを統一し、日本全国の共通の取り決めやシステムとして組み立てていく必要がありました。そこで一番はじめに取り組んだのが、この冠位十二階だったのです。身分に関係なく、能力に応じて役人になれるこのシステムは、役人になってからの心得を定める必要が出てきたのです。これで定められたのが、後に出てくる十七条憲法なのです。

------------------------

------------------------------------

他與袁世凱勾結 是晚清第一貪官!溥儀送他一個字... - 中時電子報 - http://goo.gl/G3WM9L

他與袁世凱勾結 是晚清第一貪官!溥儀送他一個字...
2016年05月03日 20:20 於慶璇/綜合整理
他是乾隆帝十七子永璘的孫子,是晚清第一貪官,與袁世凱勾結。 (圖/互動百科)
他是乾隆帝十七子永璘的孫子,是晚清第一貪官,與袁世凱勾結。 (圖/互動百科)
一提到貪官,相信大家腦子裡都會浮現出和珅的形象,但其實除了和珅之外,在晚晴還有一位人物,比和珅還要更貪,貪的東西比和珅還要多,而且他還是一位王親,是乾隆帝十七子永璘的孫子--慶親王奕劻。

奕劻,生於1838年,滿洲鑲藍旗人,清高宗愛新覺羅·弘曆曾孫,慶僖親王愛新覺羅·永璘之孫。公元1894年,在慈禧皇帝60大壽時,被封為了慶親王,又在1908年獲授鐵帽子王(清朝時的一種爵位),同時他也是清朝最後一位鐵帽子王。在辛亥革命期間,奕劻還擔任了6個月的內閣總理大臣。

奕劻繼承的是它的爺爺慶僖親王永璘的爵位,沒什麼學問,卻寫了一首好字,因此深得慈禧的好感。(圖/100toutiao)
奕劻繼承的是它的爺爺慶僖親王永璘的爵位,沒什麼學問,卻寫了一首好字,因此深得慈禧的好感。(圖/100toutiao)
奕劻繼承的是它的爺爺慶僖親王永璘的爵位,他在前半生基本上沒有什麼作為。雖然沒什麼學問,卻寫了一首好字,慈禧便經常找他代筆,因此深得慈禧的好感。1884年,慈禧以「因循貽誤」的罪名,罷免了恭親王奕訢的一切職務,奕劻也因此有了機會,接任總理各國事務衙門大臣,主持外交,並進封為慶郡王。自1861年,慈禧太后聯合奕訢等在北京發動政變,從肅順等「贊襄政務八大臣」手中奪取了朝政大權,一直到辛亥革命,而幸運兒奕劻雖然能力不高、才疏學淺,卻做官做得相當順利。

奕劻之所以能在晚晴政壇的驚濤駭浪中屹立不倒,與他的做人做事的方法有很大關係。奕劻做事作風穩重、滴水不漏,史書上說他「榮辱忽焉,皆在聖意」。在晚晴政壇保守持重的風格下,官僚能力的高下不是決策者所看重的,所以像奕劻這種諂媚軟熟之人才能按部就班地升遷。在辛丑年時,奕劻還沒有出任領班軍機之前,他的貪財就已經是朝中人人皆知,時人稱慶親王府邸為「老慶記公司」,專門賣官斂財。

史書上說慶親王奕劻「榮辱忽焉,皆在聖意」。(圖/今日頭條)
史書上說慶親王奕劻「榮辱忽焉,皆在聖意」。(圖/今日頭條)
奕劻以各種名目受賄,他與袁世凱的勾結,更是為大清的覆滅埋下了巨大的隱患。1903年,領班軍機榮祿病重,袁世凱計算奕劻將繼任,遣楊士琦持銀十萬兩相贈,並說「宮保知道王爺不久必入軍機。在軍機處辦事的人,每天都得進宮伺候老佛爺,而老佛爺左右,許多太監們一定向王爺道喜討賞,這一筆費用也就可觀。所以這些錢不過作為王爺到任時零用而已,以後還得特別報效。」之後,袁世凱月有月規,年有年規,兒女成婚,皆由袁一手佈置,不費王府一分錢。

1908年,奕劻七十誕辰,成了官員們攀緣交結的好時機,奕劻更是大肆進財納賄。慶王府門前車水馬龍,列起了長陣,為了掩人耳目,明地裡,奕劻告誡家人勿收禮物,但暗地裡卻將送禮者按眾寡厚薄分為四級。這一次七十壽誕,奕劻所得現金五十萬兩白銀之多,禮物價值更為百萬以上。

1911年,直到大清帝國即將滅亡之際,奕劻還近乎病態的聚斂著個人財富。據《光宣小記》記載,武昌起義後,原四川總督錫良曾自告奮勇率兵督陝,而一向賣官攏財的奕劻竟仍向其索賄80000兩,錫良為之大怒:「生平不以一錢買官,況此時乎?」

1911年《泰晤士報》刊發《慶親王外傳》一文,稱奕劻:「彼之邸第在皇城外之北,北京大小官員,無一不奔走於其門者,蓋即中國所云『其門如市』也。」(圖/華聲論壇)
1911年《泰晤士報》刊發《慶親王外傳》一文,稱奕劻:「彼之邸第在皇城外之北,北京大小官員,無一不奔走於其門者,蓋即中國所云『其門如市』也。」(圖/華聲論壇)
大清帝國傾覆之際,奕劻通過受賄索賄聚斂的家產折合白銀億兩以上,而當時大清帝國一年的財政收入不過8000多萬兩。奕劻的貪污名揚海外,1911年《泰晤士報》刊發《慶親王外傳》一文,稱奕劻:「彼之邸第在皇城外之北,北京大小官員,無一不奔走於其門者,蓋即中國所云『其門如市』也。」1917年,奕劻病死於天津租界,時年七十九歲,溥儀賜諡「密」字,意為「追悔前過」。

儘管奕劻歲貪污無數,但到頭來全被兒子們揮霍殆盡。據愛新覺羅·溥銓的《我父慶親王載振事略》記載,載振、載搏、載掄繼承了奕劻的巨額遺產,過著不勞而獲的寄生享受生活。

arrow
arrow
    全站熱搜

    nicecasio 發表在 痞客邦 留言(0) 人氣()